宝石の世界
・カットが正確で輝きが強いダイヤモンドの世界
・極稀なファンシーカラーダイヤモンドの世界
・これこそナチュラル色石の世界 
雑記帳
・日本の国内外に存在する嘘
・嘘を暴き事実を探る
・嘘の無い日本を子や孫へ
雑記帳 コンタクト
雑記帳トップ 始めに   日本 米国 台湾 支那 韓国 北朝 露国 印国 豪州 アセアン諸国
日本トップ 皇室 憲法 歴史 国政選挙 政治 社会 対外 日本近現代史
皇室トップ 昭和天皇実録 皇室
皇室トップ 昭和天皇実録 皇室
皇室ニュース/ 2020
2019 2018 2017 2016 2015 2014
皇室ニュース・2018/ 12~1
色違いの行の太文字がニュース&情報の「見出し」、スクロールし検索すると、記事、動画元にヒットする
皇室ニュース・2018/12~1
※ 内輪もめ ※ 皇室は日本人の中心
秋篠宮殿下と木端役人は世界に恥を晒し日本人に恥をかかすな!

2018・12・25 DHCTV
 
2018・12・25 秋篠宮の焼餅を利用する朝日新聞(反日左翼)!
私費で賄う大嘗祭、秋篠宮さま自ら提案 既存の神殿活用 (2)
2018・12・6 チャンネル桜 日本人必見動画!
【Front Japan 桜】G20の結果とこれから / 秋篠宮殿下「大嘗祭」発言の真意 / 中国ファーウェイ創業者の娘、逮捕 / 在韓米軍が韓国軍の指揮下に入る?![桜H30/12/6]  (3)
2018・12・4 産経新聞
「宮内庁に対する叱責」 秋篠宮さま大嘗祭ご発言で同庁次長が見解 (4)

「放送内容」
  出演:百田尚樹×田北真樹子

 ※百田氏が皇室問題を的確に語っている。
  (2)
「記事内容」

天皇の代替わりに伴う皇室行事
  「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出について、秋篠宮さまが宗教色が強いとして宮内庁に疑義を呈した際、代替案として、宮中の
  「神嘉殿(しんかでん)」を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していたことがわかった。

  秋篠宮さまが代替案として活用を提案した神嘉殿

使用後に解体・撤去される
  「大嘗宮(だいじょうきゅう)」を新設しない分、大幅に費用を抑えられる。
こうした考えは前長官の代から伝えていたが、宮内庁は前回の代替わり時に議論を尽くしたなどとし、本格的に検討しなかった。
複数の関係者が明らかにした。
政府の方針では、来年の大嘗祭の関係費は前回1990(平成2)年の22億4900万円から27億1900万円へと増大。
皇居・東御苑に新造される大嘗宮の設営費関連だけで19億700万円かかる。
関係者によると、秋篠宮さまは
  「天皇の代替わりに伴う諸行事は国民の理解のもとで執り行われるべきだ」との考えで、天皇陛下の退位の意向が内々に明らかになったことを受け、風岡典之・前宮内庁長官(2012~16年)に
  「公費支出はなじまない」と伝え、今の山本信一郎長官にも繰り返し意見を述べてきた。
政府が公費支出を決める前の段階で宮内庁に熟考を求める意図があったという。
意見した際に
  「大嘗宮を建てず、宮中にある神嘉殿で執り行っても儀式の心が薄れることはないだろう」とも述べた。
神嘉殿は国中の神々をまつる神殿で、収穫に感謝する毎年の新嘗(にいなめ)祭が行われている場。
これを使い、天皇家の私的な積立金のうち数億円で賄える範囲で実施を、という提案だった。
  (3)
「放送内容」

  キャスター:渡邉哲也・髙清水有子
 ■ ニュースPick Up
 ・入管法案、明日にも成立
 ・中国ファーウェイ創業者の娘、逮捕~ソフトバンクへの影響は?
 ・英国でもファーウェイ排除か~秘密情報部長官が警告
 ・韓国、指揮用ヘリを自国製へ無謀な変更
 ・国防大臣発言~在韓米軍が韓国軍の指揮下に入る?!
 ・仏“黄巾の乱”収束の兆しなし
 ■ G20の結果とこれから ※渡辺氏が分かり易く詳しく語っている。
 ■ 秋篠宮殿下「大嘗祭」発言の真意
 
※日本人は戦後の反日日本政府を疑え! 宮内庁もであるが、宮内庁(役人)は誠心誠意皇室に関わっているのか、皇室と日本人の離反を画策している可能性がある。
  (4)
「記事内容」

宮内庁西村泰彦次長は3日、秋篠宮さまが誕生日に先立つ会見で、代替わりに伴う大(だい)嘗(じょう)祭(さい)を政府決定の国費ではなく天皇ご一家の私的活動費でまかなうべきとし、同庁の山本信一郎長官に対し
  「聞く耳を持たなかった」と発言されたことについて、
  「しっかりした返答をしなかったことへの宮内庁に対するご叱責と受け止めている」との見解を示した。
西村次長は同日行われた定例会見の中で、秋篠宮さまのご発言に対する見解を問われ
  「『大嘗祭は必ず行われるべきだ』という大前提のもとで、ご自身の考えを率直に発言された」としたうえで
  「今回の(陛下の)譲位が具体化する前から、宮内庁長官などに伝えられていたものと聞いている」と述べた。
さらに、宮内庁としての考えを十分理解いただけなかったことについては
  「大変申し訳なく感じている」と謝罪。
ご発言は政府決定への反対ではなく
  「宮内庁に対する叱責」との認識を示した。
今後は意見が違うことがあっても理解いただくことが必要とし
  「二度とこのようなことがないよう、しっかりと対応してまいりたい」と話した。
また、秋篠宮ご夫妻の長女、眞子さまのご結婚延期をめぐり、秋篠宮さまが婚約内定相手の小室圭さん(27)側に
  「相応の対応をするべき」と発言されたことについて、西村次長は
  「重い課題を課されたと理解している」と述べた。
天皇陛下記者会見
2018・12・22 宮内庁
天皇陛下が記者会見 全編
「コメント」
天皇陛下は23日、85歳の誕生日を迎えた。
事前の記者会見では、来年4月末の退位を見据え
  「天皇としての旅を終えようとしている」
  「支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝する」と涙声で語った。
 
※多くの投稿あり!
事実かどうか、確認しようがない記事・新潮の狙いを知りたい
日本人はご皇室の揉め事を知りたくない!
2018・12・22 (1/3ページ) 「週刊新潮」2018年12月20日号 掲載
圭さんに「最後通牒」を突き付けた秋篠宮さま、両陛下もご了承 美智子皇后の“お怒り”
「記事内容」
  2月までに結論を――破談を急ぐ「美智子さま」ご決断の刻限(1/2)
来年5月の御代替わりを控え、東宮家では雅子妃が、皇太子妃として最後のお誕生日を迎えられた。
一方、皇嗣家となる秋篠宮家では、長女・眞子さまの“婚約問題”が尾を引いている。
そんな年の瀬、お相手の小室圭さんに、皇后さまが
  「怒りのご決意」を口にされていた。

    【写真】ご公務に勤しまれる眞子さま

          ***
さる9日の夜、東京・赤坂の東宮御所では、55歳のお誕生日を迎えられた雅子妃をお祝いする夕食会が催されていた。
  「両陛下をはじめ、秋篠宮ご一家や黒田慶樹・清子さん夫妻も招かれ、18時半頃から始まりました。宴席はおよそ2時間半続き、お帰りの際、両陛下は揃って笑みを湛えておられました」(宮内庁担当記者)
つづく
  小室さんは“ゼロ回答”
  一時帰国すれば…
  両陛下もご了承の“表現”
前略
御所の事情に通じる、さる関係者が打ち明ける。
  「小室さんの一連の振る舞いについて『あのようなことは、決して許すことができません』と仰っていました。皇后さまに限らず、皇族方のご発言で、ものごとについて『許す』『許さない』といった厳しい響きのお言葉など、未だかつて聞いたことがありません」
きわめて異例といえるその言い回しからは、ご内心に尋常ならざるお気持ちがこみ上げておられるのが窺える。
(2)へつづく
 
※ご皇室はグローバル化が進むと危険! 宮内庁は役に立たないのか?
天皇陛下のご苦悩・蒋介石が起こした日支事変
2018・12・16 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載
産経ニュース 【昭和天皇の87年】中国・済南で起きた日本人虐殺事件 天皇の危惧が現実化した

「記事抜粋」
  第80回 山東出兵
孫文の死後、中国南部の広東を根拠地とする国民革命軍が全国統一に向け、北方の軍閥政府を倒す北伐を開始したのは1926(大正15)年の夏である。
当時の外相、幣原喜重郎は内政不干渉政策を貫き、外国人保護を目的とするイギリスからの派兵提案にも応じなかったが、政権交代後の昭和2年5月、首相兼外相の田中義一は、山東省青島の邦人保護のため陸海軍の派兵を断行。
7月には兵力を増派して山東省済南に進出した。
山東出兵である(※1)。
大元帥となって初の本格的な海外派兵。
平和を念願する青年君主は苦悩した。
昭和天皇実録が書く。
7月8日《参謀総長鈴木荘六参殿につき謁を賜い、第十師団主力等の青島派遣に関する上奏を受けられる。
なお参謀総長拝謁後、(中略)天皇は暫時沈思された後、(侍従武官の蓮沼蕃に)撤兵についての考慮の有無、及び尼港(にこう)事件の如き事態は発生しないかとの懸念につき御下問になる》(14巻92頁)
尼港事件とは、大正7~11年のシベリア出兵の際、ニコラエフスク港(尼港)に駐屯する日本軍部隊と在留邦人、一般住民ら数千人がソ連のパルチザン部隊に虐殺された事件だ。
昭和天皇は、山東出兵で中国との軋轢(あつれき)が深まり、第二の惨事が起きることを危惧したのである。
          × × ×
その危惧は、1年足らずで現実化する。
中略
昭和天皇の苦悩は、一段と深まったに違いない。
内外ともに混迷の度を増す中で、昭和天皇の即位の礼が行われようとしていた--。
               ◇
  (※1) 1926~27年の北伐で、国民革命軍が南京に入城した際、日本を含む各国の領事館や居留地を襲撃する南京事件が発生。
多大な被害が出たにもかかわらず日本政府は邦人保護に努めなかったとして、幣原外交を糾弾する声が噴出したことも、田中政権が山東出兵に踏み切る要因となった
  (※2) 山東省済南で起きた日中両軍の衝突で中国側は、済南交渉公署の中国人外交官や職員ら計16人が日本軍に虐殺され、銃剣で耳や鼻をそぎ落とされたと国内外に喧伝、反日世論をあおった。
これに対し日本軍は、戦闘中に済南交渉公署の建物を捜索したところ、潜伏していた私服の便衣兵などから射撃されたため、建物内の16人を殺害したことは認めたものの、銃剣で耳や鼻をそぎ落としたというのは中国お得意の宣伝工作であり、そもそも銃剣でそんなことはできないとして、虐殺については否定した
               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編「昭和天皇実録」14巻
○海軍軍令部第3班作成「済南事変ノ真相」(防衛省防衛研究所所蔵)
○昭和3年5月9日午後10時40分発電送「済南事件邦人惨殺状況」(外務省外交史料館所蔵)
 
※天皇陛下は日本の今の国情をどうお考えなのだろうか?
※ 政治問題 ※ 歪んだ戦後の左傾化した司法がどう裁く
歪んだ戦後の政府が育てた歪んだ反日分子か仕掛ける国体破壊! 
2018・11・30
大嘗祭「違憲」12月提訴へ
「記事内容」
来年催される新天皇の「即位の礼」や皇位継承の重要儀式
  「大嘗祭」は、憲法が定める政教分離の原則に反するとして、市民団体「即位・大嘗祭違憲訴訟の会」は30日、国に1人当たり1万円の損害賠償と、儀式に公金を支出しないよう求める訴訟を、12月10日に東京地裁に起こすと明らかにした。
原告は、安倍晋三首相の靖国神社参拝違憲訴訟に関わってきた市民やキリスト教、仏教の宗教関係者ら約220人
即位の礼や大嘗祭は、神話に由来する神器が用いられたり、皇室神道形式で行われたりすることから、宗教性は明白だと主張。
象徴天皇制にそぐわず、国民主権に反するとしている。
 
※原告は日本が嫌いなら朝鮮やシナに移住したら如何かな! こ奴等の存在は非常に不愉快!
11・23 新嘗祭
天皇陛下と日本人が揃って新米を食し豊作を天照大神に感謝する日!
2018・11・23 可愛い写真掲載あり! 彼女等は巫女舞を一生忘れず、馬鹿な反日左翼に決してなるまい!
産経ニュース 小中学生が巫女舞奉納 廣田神社で新嘗祭

2018・11・23 手塚耕一郎 毎日新聞
<「パール富士」>頂で輝く満月 神奈川・三浦 

「記事内容」
青森市の廣田神社(田川伊吹宮司)で23日、関係者約40人が出席して新嘗祭が開かれた。
市内の小中学生が優美な巫女(みこ)舞を奉納し、今年収穫された農作物への恵みに感謝の気持ちを伝えた。
同神社は市内で唯一、子供たちに巫女舞を指導しており、平成27年に
  「舞姫会」を結成。
祭典のために毎週金曜日に稽古を重ね、これまで市内のイベントなどで舞を披露している。
この日は神事の後、8人の舞姫が太陽の恵みや自然への感謝の意味が込められた
  「豊栄(とよさか)の舞」を神前に奉納。
同市立新城中1年の宮越光子(こうこ)さん(13)は
  「神様に感謝の気持ちが伝わるように舞いました」と笑顔で話した。
 
※大分では神社で太鼓を叩いて神に感謝した。
今日は新嘗祭、日の丸を掲げ、神棚に新米と新米で炊いたご飯、お神酒を供え、仏壇に新米で炊いたご飯を供え神と先祖に感謝した。
日本人はそろそろ訳も分からん勤労感謝の日を廃止し、元の新嘗祭に戻そうや!
日本人はこれも、戦後の三流日本人(共産主義者の役人)が国と日本人に仕掛けた日本文化破壊と国家破壊の罠であると知れ!

  (2)
「記事内容」

神奈川県三浦市にある油壺の海岸で23日、満月が富士山頂に沈む
  「パール富士」が見られた。
相模湾越しの富士山まで約83キロ。
日の出前、雲の隙間(すきま)から姿を現した満月は、稜線(りょうせん)を照らしながら数分で山の背後に沈んでいった。

  【パール富士の別カットを見る】

富士山頂の上に太陽が輝く
  「ダイヤモンド富士」は、晴れていれば毎日どこかの場所で見られるが、パール富士は満月の時に限られ、見られるチャンスは少ない。
 
※反日左翼の騙し屋・新聞社に勤めていても、個々の記者は日本人の心を少しは持っているのであろう。
天も涙を流し惜しんでいる!
2018・11・10 AFP=時事
雨の中で平成最後の園遊会 赤坂御苑
「記事内容」
天皇陛下、皇后両陛下が主催する秋の園遊会が9日、都内の赤坂御苑で開かれ、雨の中で両陛下と皇太子さま(Crown Prince Naruhito)、皇太子妃雅子さま(Crown Princess Masako)、皇族方が招待客と和やかに懇談された。
  【関連写真13枚】招待客にあいさつされる皇太子ご夫妻
天皇陛下・最後の文化勲章授与式
2018・11・7
【海外の反応】衝撃!「まさか天皇陛下が…」 マハティール首相の桐花大綬章受章に現地から祝福の声が!!  
2018・11・3
産経ニュース 天皇陛下、最後の文化勲章親授式 「誠に喜ばしい」山崎正和氏らをおねぎらい (2)
2019・5・16 ユーチューブ
【聖なる遺産】マハティール首相の名演説。「日本なかりせば、世界はまったく違う様相を呈していたであろう。」 (3)
「コメント」
ナシ
 ※多くの投稿あり!
マハティール首相へ、
戦後以来、日本人を心からお支え頂き感謝しております。 
授与された事をお喜び頂きありがとうございます。
今生きる日本人として、最大のご恩返しです、マハティール首相と戦後の日本の間の絆に一区切りが出来た気がしております。
両国が益々絆を深め互いに発展する事を心よりお祈りしています。
多幸を心よりお祈りしております。

  (2)
「記事内容」

文化勲章の親授式が「文化の日」の3日、皇居・宮殿「松の間」で行われ、租税法学の金子宏氏(87)、劇作・評論の山崎正和氏(84)ら5人に天皇陛下が勲章を手渡された。
来年4月の譲位を控え、陛下にとって最後の文化勲章親授式となられた。
他の受章者は、作曲の一柳慧(いちやなぎ・とし)氏(85)、陶芸の今井政之氏(87)、情報工学の長尾真氏(82)。
式に続き、金子氏が受章者代表で感謝の言葉を述べると、陛下は
  「長年、努力を重ね、大きな業績をおさめられ、文化の向上に尽くされたことを誠に喜ばしく思います」とねぎらいの言葉をかけられた。
受章者は宮殿東庭で記念撮影に臨んだ後、宮内庁庁舎で記者会見。
山崎氏は
  「陛下手ずから勲章をいただき、平成最後の文化勲章をいただいたのだという実感が強くわきました」と感想を述べた。
今井氏は
  「世界に向かって陶芸の世界を、日本の文化を披露していきたい」と今後のさらなる活動に意欲を見せた。
  (3)
「コメント」
92才のマハティールさんが再び首相になったと聴いたのに、産経新聞以外のマスコミが年齢のことしか報道しない事にあきれました。
 ※多くの投稿あり!
大日本帝国時代を誇れよ、日本人! 
※ 政治問題 ※ 騙し屋・嘘つき安倍政権が天皇・皇后陛下を無視
反日分子の集会・嘘つき安倍総理と菅官房長官の策謀か!
2018・10・23 二階堂友紀
政府が明治維新150年を祝う式典 天皇陛下は出席せず

「記事内容」
明治維新150年を祝う政府の記念式典が23日、東京・永田町の憲政記念館で開かれた。
10月23日は元号が慶応から明治に改められた日にあたり、与野党の国会議員や各界の代表者ら約350人が出席した。

  【写真】明治150年記念式典で国歌を斉唱する(右から)安倍晋三首相、麻生太郎財務相、菅義偉官房長官=2018年10月23日午後0時21分、東京都千代田区の憲政記念館、岩下毅撮影

安倍晋三首相は式辞で
  「明治の人々が勇気と英断、たゆまぬ努力、奮闘によって、世界に向けて大きく胸を開き、新しい時代の扉を開けた」と強調。そのうえで
  「若い世代の方々にはこの機会に、我が国の近代化に向けて生じた出来事に触れ、光と影、様々な側面を貴重な経験として学びとって欲しい」と述べた。
佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇と香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった
宮内庁は
  「政府からお声がけがなかった」(西村泰彦次長)としている。 
※国民は事実を知る術がない! 天皇陛下の御心の内が知りたい!
共産党は
  「明治150年の前半は侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史。 

丸ごと祝い、肯定するような行事には参加できない」(小池晃書記局長)として欠席した。
 ※嘘つき安倍総理は日本の国体を破壊している。
大東亜戦争は大日本帝国が人類に寄与した人類史上唯一の崇高の戦いである!
台湾と朝鮮は植民地ではない! 
三流日本人が統治する日本の統治機構(政官財)は反日、彼等に騙されるな、日本人!
シナ共産党の下僕である日本国の癌・日本共産党は未だ、大嘘を以て日本人を騙そうとするのか! 
共産党は敗戦革命が成功せず、さぞかし悔しいのであろう。
日本政府と日本共産党の根は同じ! 目覚めよ、日本人!
嘘つき安倍総理は本当に日本人か?
戦前戦後のお立場の違いをお過ごしになられた昭和天皇陛下!
2018・10・14 (1/5ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇87年】
産経ニュース 君主国が次々崩壊… 卒業の春を迎えた皇太子に、皇国の命運が託された
「記事抜粋」
  宮中某重大事件(4)
宮中が皇太子妃問題で揺れた大正7年1月から10年2月にかけ、国内外の情勢も激しく揺れ動いていた。
1600万人もの戦死者を出した第一次世界大戦は1918(大正7)年11月に終結したものの、その前年にロシア革命が勃発。
イギリスをはじめ各国軍隊は革命に干渉し、日本も大正7年8月、アメリカと歩調を合わせてシベリアに出兵した。
その影響で国内では、もともと高値だった米価が一気に急騰し、全国各地で米騒動が発生。
当時の寺内正毅内閣が総辞職に追い込まれた。
かわって議会第1党の立憲政友会総裁、原敬を首班とする本格政党内閣が発足する。
つづく
          × × ×

東宮御学問所で修学中の裕仁皇太子だが、8年秋頃から、生活環境が大きく変わり始める。
天皇名代としての公務が増えたからだ。
昭和天皇実録によれば、8年11月25日
  《海軍大学校・海軍経理学校・海軍軍医学校卒業式に天皇御名代として御臨席のため、海軍大学校に行啓される。(中略)天皇御名代としての行啓はこれをもって嚆矢(こうし)とする》(6巻83~84頁)
つづく
          × × ×
揺れ動く国内外の情勢、気がかりな大正天皇の病状…。
そんな中で裕仁皇太子は、7年に及ぶ東宮御学問所での帝王教育を終え、卒業の春を迎えた。
10年2月18日
  《東宮御所において(御学問所の)終業式が行われ、本日をもって閉鎖となる》(7巻15頁)
このとき、御学問所総裁の東郷平八郎が裕仁皇太子の前に立ち、噛みしめるように言った。
中略
卒業にあたり、どんな気持ちだっただろう。
学友の永積寅彦は
  「非常に解放された感じでした」と率直に振り返る。
永積ら5人の学友は卒業後に学習院高等科3年に編入となり、大学を目指す。
だが、大正天皇の名代を務める裕仁皇太子に、進学の選択肢はない。
その目は遠く、世界を見つめていた--。
(来週からは日本の皇太子として初の「欧州外遊」編を連載します)
               ◇
  (※1)3・1独立運動 
日本に併合された朝鮮半島で、元韓国皇帝の高宗が死去したことをきっかけに起きた民族運動。
デモなどで独立を求める動きが朝鮮半島全域に広がった

  (※2)5・4運動 
第1次世界大戦後のパリ講和会議で山東半島の日本権益が列強に認められたことなどに反発した反帝国主義運動で、学生や労働者らを中心とするデモやストライキが中国各地で起きた
  ※3)普選運動 納税額などの制限のない普通選挙権を求める運動。原敬内閣は大正8年、有権者資格の納税額をそれまでの10円以上から3円以上に切り下げたが、全廃を求める声が強く、大正14年に加藤高明内閣によって普通選挙法(満25歳以上の成年男子)が制定された。
女子を含む完全普通選挙は戦後の昭和20年に実現した
               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編「昭和天皇実録」6、7巻
○黒沢文貴著「大戦間期の宮中と政治家」(みすず書房)
○鳥海靖著「第一九代 原内閣」(林茂ほか編「日本内閣史録」2巻所収)
○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)5巻
○杉浦重剛記「致誠日誌」(明治教育史研究会編「杉浦重剛全集 6巻」所収)○田中光顕監修「聖上御盛徳録」(長野新聞)
○永積寅彦著「昭和天皇と私」(神道文化会)
 
※日本人は現在の日韓、日朝関係を考えると、朝鮮は併合せず、満洲に続く有料道路として使うべきだったと思う。
三流日本人が統治した日本の戦後政府は三流日本人(役人)が敷いた線路上(歴史を直視せず、再び朝鮮半島に色気を出し関わる姿勢)を走る政策が齎した今の日韓、日朝関係! 情けない日本の姿である。
シナも同様である。
大和魂を奮い立たせろ 日本人!
2018・10・13 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇87年】
産経ニュース 大物右翼結集 皇太子妃内定解消の流れを覆した杉浦重剛の大和魂
「記事抜粋」
  宮中某重大事件(3)
裕仁皇太子に学問としての帝王学を教え、お妃候補に内定した良子女王(久邇宮家第1王女)の家庭教師も務める東宮御学問所御用掛、杉浦重剛の思想と行動は、杉浦が深く尊敬する吉田松陰のそれに近い。
二人とも
  「やむにやまれぬ大和魂」を持つ熱血漢で、正義を実現するためなら命を惜しまなかった。
その杉浦が、久邇宮家の教育係だった後閑菊野(のちの桜蔭高等女学校初代校長)から、驚くべきことを伝えられたのは大正9年11月18日である。
つづく
          × × ×
当時、宮内省は婚約解消の動きを報道禁止とし、厳重な箝口(かんこう)令を布いていた。
しかし杉浦が自宅に門下生や知人を呼び、あるいは電話で各方面に働きかけたことから、元老の山県らを糾弾する声が次第に高まっていった。
つづく
一連の経緯を、正史である昭和天皇実録はこう記す。 ※戦後政治を信用していいのか? 天皇実録さえ役人の手により改竄される可能性がある。
          × × ×
この事態に仰天したのは当時の首相、原敬だ。
極秘に進めていた婚約解消の動きが明るみになることで、政治問題化することを恐れたのである。
2月2日、原は宮相の中村雄次郎を官邸に呼んで言った。
つづく
               ◇
  (※1)綸言汗の如し 
天子が一度口にした言葉(綸言)は、一度流した汗が戻らないように取り消せないということわざ。
当時、婚約続行の論拠のひとつとなった

               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編「昭和天皇実録」6巻
○明治教育史研究会編「杉浦重剛全集」6巻
○藤本尚則著「国師杉浦重剛先生」(非売品)
○藤樫準二著「皇太子妃・色盲事件」(鶴見俊輔、中川六平編「天皇百話 上」〈ちくま文庫〉所収)
○大竹秀一著「天皇の学校」(文芸春秋)
○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)5巻
○大正10年2月11日の東京朝日新聞
○同年3月24日の都新聞
 ※日本は今、右翼と聞けば嫌悪感を抱く程に右翼という言葉が歪められている。
三流日本人が統治した戦後の日本政府(統治機構)は国是を反日とし、戦前の大日本帝国を切り捨て、大日本帝国だけに大東亜戦争の責任を押し付け、正当化しているのである。
嘘つき安倍総理さえ三流日本人が統治した政治思想を受け継いでいるのである。(米議会で証言済み)
多くの日本人は戦後、黒色のワゴン車に日の丸と旭日旗を掲げ、垂れ幕に「北方領土返還」等のスローガンを示し、スピーカで大音量の軍歌を流し、騒ぎを起こす街宣車を目にする機会も多かろう。
反日メディアはこの得体の知れないお騒がせ連中を右翼と称し、日本人の意識の中に、右翼=悪(強請り集りをする日本のはみ出し者)と認識させた。
これこそ反日左翼メデイアによる印象操作! 日本人から愛国心を奪う洗脳工作そのものである。
そして、日本は今、全国の家屋の軒下から日の丸が消えた。(私は掲げている)
日本人は果たして、得体の知れぬエセ右翼と称する輩の正体を知っているだろうか?
日本人が悪印象を持つエセ右翼の街宣活動家の正体は共産主義者であり、愛国を装い日本人を騙す反日在日韓国朝鮮人活動家であり、反日メディアの手先である。 (新聞社と新聞記者=文屋ゴロ=評判の悪い職業)
奴等はヤクザより質が悪いとも言われている。
右翼は本来、愛国者を表現するフランス語発祥(議場の右)の単語、言語は正しく使われるべきである。
戦後の反日統治機構+メディア+反日左翼+エセ右翼を含む反日勢力+アメリカの世界統一派+シナ+韓国と北朝鮮が一体となり、日本国と日本人を壊し続けているのである。
日本人はトランプ大統領を最大限利用し戦後政治から抜け出す機会にしたいものである。
早く気付けよ、日本人!
天皇家
2018・10・7 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇87年】
産経ニュース 柔和な皇太子妃候補に“待った” 婚約解消の動きが広まった
「記事抜粋」
  宮中某重大事件(2)
大正7年1月、16歳の裕仁皇太子は、大きな初春を迎えた。
皇太子妃候補が見つかったのだ。
1月12日《(久邇宮=くにのみや)邦彦王第一女子良子(ながこ)女王を皇太子妃に御予定の旨、天皇の御沙汰が邦彦王に下される》(昭和天皇実録5巻140頁)
学習院女子部に通う良子女王は当時14歳。白羽の矢を立てたのは、貞明皇后である。
真偽は定かでないが、こんな逸話が残されている。
前年10月、貞明皇后が学習院女子部を視察したときのことだ。
つづく
          × × ×
万世を一系につなぐ、天皇家との縁談―。
久邇宮家には願ってもないことである。
だが、父の邦彦王の心は晴れなかった。
良子女王の母、俔子(ちかこ)妃は薩摩・島津家の出身で近親に色覚障害者がおり、遺伝の可能性が疑われたからだ。
良子女王に異常はなかったものの、邦彦王は宮相の波多野に打ち明けて相談した。
これに対し波多野は、取り立てて問題にするには及ばないと考えたようだ。ためらう邦彦王に、
  「是非とも」と申し入れた。
つづく
          × × ×
発端は、裕仁皇太子との婚約が内定した良子女王の兄宮に、軽い色覚障害のあることが学習院の健康診断で分かったことだった。
これを問題視したのは、元老の山県有朋である。
山県は、良子女王の母の俔子妃に色覚障害の遺伝があると知りながら、深く考えなかった宮相の波多野に辞任を迫り、後任として山県系の中村雄次郎を登用、正確な調査を指示した。
大正9年夏ごろのことだ。
つづく
               ◇
  (※1)当時の徴兵令では色覚障害者は軍務に支障が出るとして兵役が免除されていた
               ◇  
  【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』5、6巻
○宮内庁編『貞明皇后実録』18巻
○片野真佐子著『皇后の近代』(講談社)
○女性自身編集部著『御素顔の皇后さま』(光文社)
○藤樫準二著「皇太子妃・色盲事件」(鶴見俊輔、中川六平編『天皇百話 上』〈ちくま文庫〉所収)
○高橋紘著『人間昭和天皇 上』(講談社)
○猪狩史山編『申酉回瀾(しんゆうかいらん)録』(憲政資料室収集文書)
○原奎一郎編『原敬日記』5巻(福村出版)
第一次世界大戦参戦は積極的だった大日本帝国!
2018・9・29 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇87年】
産経ニュース 国運を狂わせた対華21ヵ条要求 大正天皇は深く憂慮した
「記事内容」
  第一次世界大戦(1)
1914(大正3)年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。
当時オーストリア=ハンガリー帝国の統治領だったこの都市で、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント大公がセルビアの民族主義者に銃撃され、妻とともに死亡した。
このテロが、全世界で1600万人もの戦死者を出す第一次世界大戦の引き金となる。
オーストリアは7月28日、報復のためセルビアへの宣戦を布告、これに対しセルビアを支援するロシアが総動員令を発令、するとオーストリアの同盟国ドイツがロシアとフランスに宣戦して中立国ベルギーに侵攻し、怒ったイギリスがフランス側に立って参戦…と、ドミノ倒しのように戦火が拡大していった。
アジアにも飛び火した。
日英同盟を理由に、日本が参戦したのだ。
ときの首相は大隈重信、外相は加藤高明。
ともに独断専行型で知られる2人の狙いは、対岸の火事に乗じて懸案の日中問題を一気に解決することだった。
日露戦争後、日本はロシアから満州権益を引き継いだものの、その期間はロシアが中国と結んだ条約の残余期間(1898年から25年間)にすぎず、延長するには中国との間に新たな条約を結ばなければならない。
そこで山東省にあるドイツの租借地を奪取し、条件付きで中国に返還することで、見返りに満州権益を認めさせよう-というのが加藤の計略である。
8月初旬に同盟国のイギリスから参戦要請があると、加藤は大隈の了承のもと、栃木県の日光田母沢御用邸で静養中の大正天皇のもとを訪れた。
  「陛下、日英同盟もあることですし、ドイツと開戦するよりほかにありません」
大正天皇は苦悩した。
国防上の参戦ならともかく、欧州の戦火を自らアジアに広げ、国民の血を流す必要があるのか-。
前内相の原敬が日記につづったところでは、
  「(加藤は)拝謁して二時間も奏上し、結局裁可を得たる積(つもり)にて退出せんとせしに、陛下御呼留ありて、『諒闇(りょうあん)中だから』との御詞を三回も賜りて『能く協議せよ』との御沙汰」を下したという。
  「諒闇中だから」には、同年4月に崩御した昭憲皇太后(明治天皇の后)の喪が明けておらず、大きな行動はつつしみたいという内意が込められている。
立憲君主として政府方針を覆せない大正天皇の、精一杯の“抵抗”だろう。それを3回も繰り返したところに憂慮の深さがうかがえる。
だが、大隈と加藤は猪突(ちょとつ)猛進する。
事前に陸海軍の統帥部と十分な協議もせず、拙速な対応を懸念する元老さえ押し切り、同年8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。
アジアに大軍を回す余裕のないドイツは、日本軍の敵ではなかった。
陸軍は中国山東省にある青島と膠州湾のドイツ租借地を攻略。
海軍は太平洋にあるドイツ植民地のヤップ、パラオ、サイパンなど南洋諸島を次々に占領。
相次ぐ勝報に、日本中が湧いた(※1)。
          × × ×
と、ここから大隈と加藤の計算が狂い始める。
参戦の狙いは満州権益の維持だったが、さらなる権益拡大を求める世論が強まったため、迎合してしまうのだ。
議会第2党の立憲同志会を与党とする大隈内閣は、第1党の立憲政友会を押さえる上でも、世論の動向に敏感にならざるを得ない。
外務省には当時、さまざまな要望が持ち込まれ、それが加藤を対中強硬路線に走らせた。
大正4(1915)年1月、加藤は辛亥革命後の中華民国初代大統領、袁世凱(えん・せいがい)に対し、満州権益の延長と山東省権益の継承などを求める1~4号14カ条の要求条項と、中国政府の顧問に日本人を採用させるなど5号7カ条の希望条項を突きつけた。
これが日本の運命を狂わせた、対華21カ条要求だ。
権謀術数に長けた袁世凱は、むしろこの要求を奇貨とし、日本に痛烈なしっぺ返しを食らわせようとする--。
               ◇
  (※1)第一次世界大戦で日本軍は、地中海にも特務艦隊を派遣し、イギリス軍などの兵員輸送を護衛した
               ◇
  【参考・引用文献】
○奈良岡聰智著「第一次世界大戦初期の日本外交-参戦から二十一カ条要求まで」(山室信一・岡田暁生など編『世界戦争 現代の起点 第一次世界大戦』〈岩波書店〉1巻所収)
○原奎一郎編「原敬日記」(福村出版)4巻
人間性・日本人とイギリス人の大きな違い!
2012・8・21 ユーチューブ 日本人必見動画!
【日下公人】8.6日本会議広島「ヒロシマの平和は本当か?」[桜H24/8/21]  
「コメント」
元航空幕僚長の田母神俊雄氏を招いて、8月6日の
  「広島原爆忌」に広島市内で、リアルでタブー無き安全保障論を展開する日本会議広島。
今年は、第一部に評論家の日下公人氏をお招きし、その広い視野から見た日本の底力と、極めて現実的な
  「核武装」の可能性、リアルな戦時中の庶民感情などをお話しいただきました。
日本会議広島のご厚意により、ここにその講演会を公開いたします。
 
※昭和天皇陛下が皇太子殿下時代、屈辱のイギリス訪問を語っている。
続いて日本核武装論、広島(日本)の歪んだ教育を語っている。
天皇論、戦後日本を語っている。

戦後政治(与野党)の教育は嘘を教え堕落させる愚民化政策!
2018・9・23 (1/4ページ) 【昭和天皇87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 東郷平八郎の教えと「王者の答案」
「記事抜粋」
  帝王教育(4)
前略
学習院時代の乃木希典は、しばしば裕仁皇太子に訓示した。
一方、寡黙な東郷は自らの態度によって、将来の大元帥にあるべき姿を示したかったのだろう。 ※日本の戦後政治は天皇陛下と国、日本人に対し無責任! 政治家と役人は数々の多くの失政を重ねているが、反省すらせず、修正すらせず、一度も詫びもせず、日本人を騙し続けている。 当然だが、切腹する気概さえない。

          × × ×
前略
別の日、白鳥はみんなに聞いた。
  「白色人種と黄色人種の区別は何ですか」
ほかの学友が答えられないでいると、裕仁皇太子が言った。
  「黄色人種も白色人種も何ら区別はない。ヨーロッパに行って白色人種となり、東洋に来て黄色人種となっただけです。そして白色人種は早くに文明を吸収し、今日に至っています」
いずれも、まだ授業で教えていない範囲だ。
白鳥は、これぞ
  「王者の答案」と感嘆したという。 
※教育の重要性が明らか! 日本の戦後教育は戦前と真逆!一貫して日本人(男女)を堕落させ愚民にしている。
だが、歴史の歯車は、
  「王者の答案」とは反対方向に回り出していく。
1914(大正3)年の夏、第一次世界大戦が勃発-。
このとき、日本が中国に対してとった行動が、中国はもちろんアメリカなどの対日不信を招き、先の大戦につながる禍根を残すことになる--。
               ◇
  (※1)大迫寅彦はのちに養子入りし、永積姓となった
  (※2)仲哀天皇の后、神功皇后の主導で朝鮮半島に出兵し、新羅、百済、高句麗の3国を服属させたとされる戦争。
時期や支配領域などついては諸説ある
               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』4巻
○小笠原長生編著『東郷元帥詳伝』(忠誠堂)
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○永積寅彦著『昭和天皇と私』(神道文化会)
○田中光顕監修『聖上御盛徳録』(長野新聞)
反日左翼が乗っ取った歴史学会とメディア・日本人が信じていいのか?
2018・9・15 中公新書編集部 田中正敏 【編集者のおすすめ】
産経ニュース 『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』 誰もが気になる29の謎を解説
「記事内容」
鎌倉時代は
  「いい国つくろう」の1192年に始まる、という
  「常識」はもはや学界の主流ではない。
そんな話を耳にしたことのある人も多いだろう。
日本史の研究は日々蓄積され、塗り替えられている。
昔、教科書で学んだ
  「史実」が、今や一変しているかもしれないのだ。
しかし一般の歴史ファンが研究の最前線を追い続けることは難しい。
一線で活躍する歴史研究者の方々に、今注目されている日本史の論点は何か、どこまで解明されているのか、分かりやすく解説してもらえないだろうか。
そうした思いから本書の企画はスタートした。
邪馬台国はどこにあったのか。
元寇勝利の理由は神風なのか。
江戸時代は
  「鎖国」だったのか。
明治維新は革命なのか。
田中角栄は名宰相だったのか。
誰もが気になる29の謎について、卑弥呼の古代から平成が終わろうとする現代まで、各時代を専門とする強力執筆陣に解説してもらった。
本書は中公新書2500点目の記念作品でもある。
中公新書はこれまでも多数の日本史関連書を刊行し、近年も
  『応仁の乱』『日本史の内幕』『日本軍兵士』などがベストセラーとなった。
本書も広く歴史好きに向けた、間口の広い内容になっている。
巻末には、各時代の必読書をブックリスト
  「日本史をつかむ百冊」としてまとめた。
読書の秋に向け、いっそう歴史に浸るためのヒントとしてご活用いただきたい。(中公新書編集部編/中公新書・880円+税)
 
※産経とてグローバリズム(日本の破戒主義)の信奉者! 手前味噌の記事を信じていいのか?
明治天皇崩御! 
2018・9・2 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至  【昭和天皇87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」 
2018・8・31 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至  
【昭和天皇87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 大帝崩御 偉大な祖父の尊顔を、皇子はまぶたに焼きつけた (2)
「記事抜粋」
  明治の終焉(2)
明治天皇の崩御により、嘉仁皇太子は天皇に即位し、裕仁親王は皇太子となった。
その皇太子のもとを学習院長、乃木希典(まれすけ)が訪れたのは大正元年9月10日、明治天皇の大喪儀が行われる3日前である。
雍仁(やすひと)親王によれば、乃木は頬髭も顎髭も伸びたままで、
  「ふだんの面影なく、あまりの変り方に唖然(あぜん)」とするほどやつれていたという。
皇太子に拝謁した乃木は、これまで以上に勉学に励まれること、身体を大切にすることを諭し、
  「中朝事実」など書物2冊を差し出した。
  「これは希典が平素愛読しております本で、肝要のところには希典が朱点をつけております。今はまだお分かりにはなりませんでしょうが、殿下のおためになる本ですので献上致します」
江戸初期の儒学者、山鹿素行が著した中朝事実は、儒教の思想は易姓革命(※1)を繰り返す中国ではなく、万世一系の皇室をいただく日本に根付いており、日本こそが
  「中朝」であるとして、中華思想に染まった当時の知識層に民族的な自覚を促した大書だ。
明治維新以降、急速な西洋化とともに日本古来の行動規範が希薄化する中、乃木は皇太子に、原点をふまえて前に進むよう、教えたかったのではないか。
ふだんと違う様子に皇太子は、
  「院長閣下は、どこかへ行かれるのですか」と尋ねたという。
          × × ×
前略
うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり
乃木の辞世の句だ。
ほかに辞世1句と静子の辞世が残されていた。
享年六十二、静子は五十二-。
家の外では、明治天皇の霊轜車を中心とした大葬列が、沿道を埋めた数十万の市民に見送られながらゆっくり葬場殿へと向かっていた。
翌14日午前
  《(裕仁皇太子は)乃木自刃の旨並びに辞世などをお聞きになり、御落涙になる》(昭和天皇実録3巻184頁)。
          × × ×
前略
  「それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないやうに、貴方にも私の自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右(さう)だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」
          × × ×
前略
明治維新以降、日本は西欧列強の脅威を受けながら、富国強兵の道を一途(いちず)に、がむしゃらに進んできた。
しかし日清日露の戦役に勝利し、列強の仲間入りを果たすと、外に向いていたエネルギーが内に向くようになる。
明治の終焉-。
それは良くも悪くも、大正ロマンや大正デモクラシーといった、新しい流れを生み出していく。
一方、国外ではその頃、朝鮮半島情勢が激しく揺れ動き、それが日本と裕仁親王の将来に、暗雲となって覆いかぶさることになる--。
 
※嘘つき安倍総理は命乞いはするだろうが、他人の為に死ぬ男ではあるまい!
明治は古きになりにけり!

               ◇
  (※1)易姓革命 ある姓の王朝が断絶して別の姓の王朝ができること
  (※2)霊轜車 貴人の柩(ひつぎ)を運ぶ車
               ◇
  【参考・引用文献】
○秩父宮雍仁親王著『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版)
○学習院輔仁会編『乃木院長記念録』(三光堂)
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○黒木勇吉著『乃木希典』(講談社)
○同書収録の「遺言条々」「遺書」「夫妻死体検案始末書」
○宮内庁編『昭和天皇実録』3巻
○夏目漱石著『こゝろ』(岩波書店)
○新渡戸稲造談「大将の心事を明かにせばあらゆる方面に好影響を及ぼさん」(雑誌『中央公論』大正元年10月号所収)
○志賀直哉の日記(『志賀直哉全集』第10巻〈岩波書店〉所収)
○芥川龍之介著『将軍』(新潮社・名著復刻芥川龍之介文学館)
  (2)
「記事抜粋」

  明治の終焉(1)
明治天皇の様子に、明らかな異変がみられたのは明治45年7月15日、枢密院会議の席上だった。
ふだんの明治天皇は、会議で玉座につくや端然とし、微塵(みじん)も姿勢を崩さない。
ところがこの日は、閣僚や枢密顧問官が居並ぶ中で、居眠りをはじめたのだ。
日露の秘密協約に関する会議である。
交渉経過を説明するはずだった首相の西園寺公望らは、はじめて見る異変に戸惑い、狼狽(ろうばい)した。
何より明治天皇自身が驚いた。
会議終了後、左右の近侍に
  「重要な会議なのに疲労に堪えず、覚えず座睡を3回もしてしまった」と漏らしたと、宮内省編集の『明治天皇紀』に記されている。
明治天皇は翌16、17日も公務につくが、不整脈がみられ、18日には
  「終日恍惚(こうこつ)として仮眠」する状態だった。
そして19日の夕食時、
  「眼がかすむようだ」と言って椅子から立ち上がり、よろけるように倒れた。
近侍らが慌てて布団に寝かせたが、40・5度の高熱で、やがて昏睡(こんすい)状態に陥った。
翌朝、東京帝国大医科大教授の医師2人が尿毒症と診断。
急ぎ参内した元老、閣僚、陸海軍大将、枢密顧問官らは愕然として色を失った。
          × × × 
前略
国民を赤子とする明治天皇は、肉親への愛情表現を極度に抑制するところがあり、皇女が参内しても会わなかったと伝えられる。
年少の雍仁親王が、祖父に対して
  「むしろ『こわい』『おそろしい』といった」感情を抱いたのも無理はない。

          × × ×
前略
同年7月29日、《午後十時四十三分、天皇崩御す。
急報により、午後十一時十二分(裕仁親王は)雍仁親王・宣仁親王と共に御出門、御参内になり、御尊骸に御拝礼になる。
皇后(昭憲皇太后)より御尊顔を御記憶になるべき旨のお言葉あり》
敬愛する祖父であり、偉大な天皇であった最期の顔は、裕仁親王の小さな胸に、どう刻まれたことだろう。
悲しみの谷底は、まだ先にもあった。
学習院長の乃木希典(まれすけ)が、明治天皇のあとを追って殉死したのである-
 
※明治まで日本人に武士の魂が生き続けていたのだろう。
今の政治家に乃木希典の真似さえ出来る者は誰一人もいまい。
戦後、日本国を乗っ取った三流日本人が恨めしく、皇室を取り巻く環境の悪化が情けない!

               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内省編『明治天皇紀 第12』(吉川弘文館)
○秩父宮雍仁親王著『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版)
○栗原広太著『人間明治天皇』(駿河台書房)
○鈴木(旧姓足立)孝著「天皇・運命の誕生」(文芸春秋編『昭和天皇の時代』所収)
○宮内庁編『昭和天皇実録』3巻
 
※産経新聞に感謝!
宮内庁に不信と疑念を抱く多くの日本人!
2018・8・26 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至  【昭和天皇87年】 日本人必見記事!
産経ニュース つかの間の家族団らん 「軍歌も唱歌もうたわれた」
「記事内容」
  質実剛健(4)
つづく
          × × ×
戦前の天皇家には親子別離の慣習があり、家族で過ごす時間は限られている。
ただし裕仁親王の学習院初等学科時代は、家族のぬくもりを感じる機会が比較的多かった。
毎週2回、水曜の夜は嘉仁皇太子と節子皇太子妃が皇孫仮御殿を訪れ、土曜の夜は裕仁、雍仁(やすひと)、宣仁3親王が東宮御所へ行って、家族で食卓を囲んだ。
夕食後は侍従や女官をまじえての団欒(だんらん)。
節子妃のピアノ伴奏で皇太子が軍歌などを歌い、やがて子供たちも歌詞を覚えて、みんなで合唱するというにぎやかさだ。
雍仁親王が振り返る。
「食事が終わると、よく食堂のうしろのピアノのある室で合唱をした。母上がピアノを弾かれ、侍従、武官、女官に、父上も加わられて軍歌が多かったように思うが、唱歌もいろいろうたわれた。(中略)何しろ調子を無視して、蛮声をはりあげるのだから、真にやかましい、にぎやかなものだった。しかしこんな雰囲気は親子水入らずではないが、思い出しても楽しいものである」
          × × ×  
ところで節子妃はこの頃、夫である嘉仁皇太子との関係や古参の女官との軋轢(あつれき)などに悩み、心に深い傷を負っていたとされる(※2)。
追い打ちをかけるように44年3~6月、節子妃は腸チフスに感染し、治療のため神奈川県の葉山御用邸に隔離されてしまった。
裕仁親王は手紙を書いた。
中略
この手紙が、どんなに節子妃を和ませたことか-。
翌月初めに床払いした節子妃は、心の傷も癒え、以前に増して気丈に振る舞うようになったとされる。
こうして少年期の裕仁親王は、学習院で乃木希典(まれすけ)院長の訓育を受ける一方、帰邸すれば家族のぬくもりを肌で感じ、情操を豊かにしていった。
だが、そんな生活環境を激変させることが起きる。
明治天皇が崩御したのだ--。
               ◇
   (※1)(※3)=手紙はいずれも宮内庁編『昭和天皇実録』3巻から引用。
文中の「だんだん」「たびたび」などの原文は繰り返し符号の踊り字。
淳宮は雍仁親王(のちの秩父宮)、光宮は宣仁親王(のちの高松宮)
  (※2)当時の節子妃が深い悩みを抱えていたことは、結婚10年目を迎えた明治43年に詠んだ、こんな和歌にもあらわれている。
いかにせむ あゝいかにせむ くるしさの やるせだになき わが思ひ川
はてもなく 千ゞに思ひのみだれては わが身の程も 忘れつるかな
こしかたは たヾ夢にして 行末の 空ながむれば まづなみだなり

  【参考・引用文献】
○宮内庁編「昭和天皇実録」3巻
○同「貞明皇后御歌集〈上〉」
○同「貞明皇后実録稿本17」所収の「佐々木高行日記」
○鈴木昌鑑監修「秩父宮雍仁親王」(秩父宮を偲(しの)ぶ会)
○小田部雄次著「昭憲皇太后・貞明皇后 一筋に誠をもちて仕へなば」(ミネルヴァ書房)
 
※今の文書改竄が当たり前の反日政府の宮内庁の役人に皇室の史実が残し得るのだろうか?
人間になられた先帝陛下を偲ぶ!
2018・8・25 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至  【昭和天皇87年】
産経ニュース 観察力と記憶力は抜群 “科学者天皇”の片鱗も
「記事抜粋」
  質実剛健(3)
前略
同文書では、この頃の裕仁親王の長所として、観察力と記憶力が優れていること、動物や昆虫の採集、分類、標本づくりなどの才能が際立っていること、人を思いやる心があることなどを挙げている。
その半面、たまに規則を自分の都合のよいように解釈することや、授業で発表するときの発音(とくに濁音や促音など)に問題があることを指摘する(※1)。
担当教員らの回想によると、学業では算術が良くでき、次いで理科、地理、歴史などが得意科目だった。
一方、不器用なところがあり、図画や手工、体育は不得意だったという。
気になるのは、やや神経質ともいえるほど潔癖な面が、年少期からみられたことだ。
机上など
  「常ニ整然トシテ一糸乱レズ 弟宮方ノ御机上トハ格段ノ御違ヒ」であり、雑誌なども号を順番にそろえて整理しておく性格だった。
学友の松平直国は、
  「ゲームの時にはよく曖昧なことを我々がやることに対して、相当な抗議をなされました」と述懐する。
こうした性格は、のちに大きな長所にもなれば、短所にもなりかねないおそれがあった(※2)。
          × × ×
前略
大関国見山の熱戦の後、裕仁親王は言った。
  「国見山、はじめ『突出し』で後で『咽喉輪(のどわ)』よ。そうしてまた突いたの」
一瞬のうちに決まり手を正しくみてとった観察力に、側近は舌を巻いた。
もう一つ、当時の昭和天皇実録にたびたび記されていることがある。
両親である皇太子同妃をはじめ、家族との触れ合いだ--。
               ◇
  (※1)例えば「あべこべ」を「あぼぼけぺべ」、「あたたかい」を「あたかい」などと発音した。
  (※2)昭和天皇の4歳下の弟、高松宮は昭和19年7月8日付の日記に、
  「陛下(昭和天皇)の御性質上、組織が動いているときは邪なことがお嫌ひなれば筋を通すと云ふ潔癖は長所でいらつしやるが、組織がその本当の作用をしなくなつたときは、どうにもならぬ短所となつてしまふ。今後の難局には最もその短所が大きく害をなすと心配されるので、さうしたときの御心構へなり御処置につき今からお考へを正し準備をする要あり」
  「お上(昭和天皇)は筋を踏み外すことが全くおきらひなため、内大臣は政治向き、武官長は軍事、宮内大臣は宮中関係、侍従長には側近のことと云ふ風に全くそれから少しでも出たことを申し上げれば御気色悪く、自らも決して仰せにならぬ」と記している(原文はカタカナ)。
               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』2、3巻
○原敬文書研究会編『原敬関係文書 別巻』(日本放送出版協会)に所収の「迪宮殿下御心意状態」
○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)所収の石井国次謹話「御学事と御武勇」
○同『聖上御盛徳録』所収の松平直国謹話「御学友としての思ひ出」
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
○高松宮宣仁親王記『高松宮日記』7巻(中央公論社)
 ※天皇陛下は神にあられた方が、日本国にとって、日本人にとって幸せだっただろう。
戦後、腐った三流役人と三流政治家、三流財界人による談合利権政治(騙し政治)が行われなかった可能性がある。
今の日本国は背骨を失っている。
天照大神とお傍に行かれた先帝陛下のお嘆きが聞こえそうである。
早く気付けよ、日本人!
先帝陛下に「戦争責任」を問う輩は日本人では無い!
2018・8・23
産経ニュース 「細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」 昭和天皇85歳、ご心情 故小林忍侍従の日記に記述
「記事内容」
昭和天皇が85歳だった昭和62年4月に
  「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と漏らしていたことが22日、元侍従の小林忍氏が残した日記の記述で分かった。
先の大戦を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気にかけていた心情が改めて浮き彫りになり、重要史料といえる。
62年4月7日の欄に
  「昨夕のこと」と記され、昭和天皇がこの前日に住まいの皇居・吹上(ふきあげ)御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。
小林氏は昭和天皇の侍従になった49年4月から平成12年6月まで日記をつづった。
共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の半藤一利(かずとし)氏とノンフィクション作家の保阪正康氏とともに分析した。
  (日記の引用部分の表記は基本的に原文のまま)
 
※ご安心ください、先帝陛下! 多くの日本人は今、目覚めつつあります。
日本人は必ず、皇室と日本国、輝かしい日本の歴史をお守り致しします。

学習院
2018・8・18 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至  【昭和天皇87年】
産経ニュース 学習院の空気一変! 新院長、乃木希典の超厳格教育
「記事内容」
  質実剛健(1)
学習院-。
主に華族の子弟が学ぶ教育機関として明治10年に創立された、宮内省直轄の官立学校だ。
華族中心ながら当時は武術、馬術など武課教育を重視しており、学習院の名称は明治天皇が定めた(※1)。
この学習院の第10代院長に、明治天皇の意向で軍事参議官の乃木希典(まれすけ)が就任したのは明治40年1月、裕仁親王が入学する1年前である。
明治天皇は詠んだ。
いさをある 人を をしえの親にして
おほしたてなむ やまとなでしこ(※2)
乃木の院長就任により、学習院の空気は一変した。
同校はその頃、柔弱華美の弊に流れていると批判されていたが、
  「(乃木院長が)明治四十年代の学習院に大きな影響を与え」たと、同校発行の
  「学習院百年史」に書かれている。
乃木が学習院に持ち込んだのは、質実剛健、質素勤勉の気風だ。
中・高等学科を全寮制にして自ら住み込み、生徒と寝食をともにし、
  「贅沢(ぜいたく)ほど人を馬鹿にするものはない」
  「寒い時は暑いと思ひ、暑い時は寒いと思へ」と訓示した。
規律は厳格で、華族だろうと年少だろうと容赦はしない。
院長就任後の40年4月4日の寒日、乃木は早速、皇孫仮御殿を訪れた。
  《学習院長乃木希典参殿につき、(裕仁親王は)雍仁(やすひと)親王と共にそれぞれ謁を賜う。乃木より、今日の様に寒い時や雪などが降って手のこごえる時などでも、運動をすればあたたかくなりますが、殿下はいかがでございますかと尋ねられ、ええ運動しますとお答えになる》(昭和天皇実録2巻17頁)
裕仁親王は、火鉢にでも当たっていたのだろう。
乃木は断然、外遊びを促した。学習院に入学する1年前からこの調子である。
つづく
          × × ×
ところで当時の学習院初等学科1学年は、東西2学級編成である。
新入生となった裕仁親王は同学年の華頂宮(かちょうのみや)博忠王、久邇宮(くにのみや)邦久王とともに西組に所属した(※3)。
クラスメートは12人。
  「華族以上ノ子弟ニシテ品行方正且家庭ノ正シキ者」から選ばれた。

つづく
               ◇
  (※1)学習院の源流は幕末の弘化4(1847)年、京都御所の東側に設置された公家のための学問所で、孝明天皇が
  「学習院」の額を下賜した。
維新後の明治10年、東京・神田錦町に華族の学校が創立された際、明治天皇は京都時代の名称を継承するよう勅諭し、
  「学習院」の名がついた。
なお、神田錦町の校舎は明治19年の火災で焼失したため、23年に四谷に移転。
中・高等学科は41年に高田村(現豊島区目白)に移転し、全寮制となった(初等学科と女学部はそのまま)。
先の大戦後は宮内省から独立。
私立学習院として現在に至っている。
  (※2)御製の意味は、
  「勲功(いさを)のある人物を教育(をしえ=教え)の長として、皇国の子供たち(やまとなでしこ)を養い育てよう(おほしたてなむ=生し立てなむ)」
  (※3)裕仁親王は2学年から東組所属で、遊戯がなくなって体操、綴方、書方の授業も行われた。
4学年から地理が、5学年から歴史、理科、修身が追加された。
               ◇
  【参考・引用文献】
○宮内庁編集「昭和天皇実録」2巻
○学習院発行「学習院百年史 第一編」
○学習院輔仁会編「乃木院長記念録」(三光堂)
○永積寅彦著「昭和天皇と私」(神道文化会)
 
※世界は今、騙し合い! 他国の善意に国の未来と日本人を委ねていいのか、日本人!
目覚めよ、日本人!
2018・8・15 DHCTV 日本人必見動画!
【DHC】8/15(水) 井上和彦×藤井厳喜×居島一平【虎ノ門ニュース】
「放送内容」
  出演:井上和彦×藤井厳喜


 
※戦後72年過ぎた今、日本人は未だに戦後の悪しき日本政府(与野党・役人)に騙され続けている!
嘘つき安倍総理は二次政権以後、日本(皇室と国、日本人)を壊す総仕上げをしている気がしてならない!

皇室こそ日本人の誇り!
2018・8・12 (1/4ページ) 【昭和天皇87年】
産経ニュース 遊び相手と戦争ごっこも… あらわとなった“名将”の資質
「記事抜粋」
  昇陽の日々(2)
明治39年5月4日、
  《この日より(裕仁親王は)雍仁(やすひと)親王と共に、規則を立てての幼稚園課業をお始めになる》(昭和天皇実録1巻130頁)
裕仁親王は5歳になったばかり、雍仁親王はもうすぐ4歳。
ただし幼稚園課業といっても、多数の園児のいる施設に通うのではなく、皇孫仮御殿内で同年代の
  「御相手」と一緒に学ぶ形式である。
課業の内容は礼の作法、粘土細工、自由遊戯、唱歌など。
御相手は8人で、学習院通学の1人を除く7人が2組に分かれ、1日おきに仮御殿に通った。
皇孫御養育掛長の丸尾錦作によれば、起床は遅くても午前6時半。
まず侍医の診察を受け、伊勢皇大神宮の神札と天皇皇后、皇太子同妃の御真影に朝拝。
朝食後に30分の休憩があり、午前9時から幼稚園課業。
午後は御相手と一緒に
  「運動遊戯を遊ばす」というのが日課である。
幼稚園の様子を嘉仁皇太子や節子皇太子妃が見学することもしばしばあった。
昭和天皇実録にはこの頃、
  《皇太子妃がお成りになり、端午の節句の人形飾り、幼稚園の御模様を御覧になる》(1巻131頁)、
  《皇太子・同妃御参殿につき、(裕仁親王は)雍仁親王と共に皇孫仮御殿内の幼稚園へ御案内になり、積木・唱歌等の様子を披露される》(同巻135頁)などの記述が散見される。
つづく
          × × ×
そんな裕仁親王の幼稚園時代は、充実していたといえるだろう。
東宮御所と皇孫仮御殿とは庭つづきで、両親である嘉仁皇太子と節子皇太子妃の愛情を身近に感じることもできた。
昭和天皇実録には
  《皇太子・同妃、典侍柳原愛子(なるこ※2)等を伴い御参殿につき、(裕仁親王は)雍仁親王及び御相手とのお遊びの様子を披露される。鬼事の際には、皇太子・同妃も招き入れられ、御一緒にお遊びになる》(1巻137頁)などの記述も少なくない。
こうした触れ合いは、学習院初等学科1~2年生の頃までひんぱんにあったようだ。
中略
だが、やがて天皇となる身だ。甘えられる時期は短い。
41年4月、裕仁親王は学習院初等学科に入学する。
いよいよ帝王教育が本格的に始まるのだ。
出迎えたのは、その前年に第10代学習院長となった日露戦争の英雄、乃木希典(まれすけ)である--。
(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 来週からは、少年時代の昭和天皇が乃木希典と東郷平八郎の指導を受け、将来の天皇としての資質を磨いていく「帝王教育」編を連載します)
               ◇
  (※1)鬼事は鬼ごっこ、尻尾取りはズボンの後ろにハンカチをはさんで取り合うゲーム。
裕仁親王のお気に入りだったという。
  (※2)柳原愛子は明治天皇の側室で、裕仁親王の実の祖母。
  【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻、2巻
○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)
○丸尾錦作謹話「天晴未来の明君」(『聖上御盛徳録』所収)
○鈴木(旧姓・足立)孝謹話「幼稚園御修業のころ」(同)
○甘露寺受長著『背広の天皇』(東西文明社)
靖国御親拝・環境を整えよ日本人!
2018・8・10 (1/3ページ) 【正論・戦後73年に思う】
産経ニュース 歴史の是正を世界に宣揚せよ 東京大学名誉教授・小堀桂一郎

「記事内容」
昭和21年から算(かぞ)へて73回目の
  「終戦の詔書奉戴記念日」が近づいてゐる。
本年の記念日が平成の元号を以て呼ばれる時代の最終回になる事に多分に感慨を覚える。

  靖国御親拝の環境整えよ
  「日本断罪史観」脱却の動き
  万世の為に太平開く決意を
それは国民の祖霊信仰一般と共通する所の多い守護神信仰の民俗的宗教的現実を証示するにすぎないとの見方もあらう。
だが靖国神社は、その本質に照らしてむしろ遺憾ながらといふべきであるが、民俗的次元を超えて濃い国際政治的意味を帯びてしまつてゐる国家的宗教的施設である。
我々は不本意ながら靖国神社の政治的意味を活用する事が可能である。
即ち天皇陛下の御親拝を国民が挙(こぞ)つて請願する事を通じ、我々は神社御創建以来の我が国の現代史の履歴を信念を籠めて肯定し認承する事になる。
戦後の誤れる風潮によつて奪はれてゐた歴史を再び我手に取り戻し、その意味を誇りを以て世界に向けて宣揚する事、それが万世の為に太平を開かむとの決意の表明になるであらう。
竹田よ、もっとハッキリ言え!
2018・7・26 DHCTV ワシントン=黒瀬悦成 日本人必見動画!
【DHC】7/26(木) 有本香×竹田恒泰×居島一平【虎ノ門ニュース】  

「放送内容」
00:03:08 本編
00:14:59 8月1日に皇位継承式典事務局設置
00:30:39 国民民主党代表 杉田議員を非難 LGBT巡る寄稿で
00:45:28 2016年3月4日 古屋圭司 衆議院議員出演の回 LGBTの話
01:01:53 【速報】残る死刑囚の刑執行 オウム真理教の元幹部
01:05:01 竹田恒泰の虎ディショナル談話(最高敬語のススメ)
01:34:52 お知らせ(DHC海洋深層水はオンラインストアで!)
01:35:47 お知らせ(“コレ聞き”スペシャル 夏 8月13日〜17日)
01:37:23 アンケート結果
01:40:14 尖閣諸島のお天気
01:41:02 トラ撮り!(有本香氏:井本勝幸氏の遺骨収集作業)
01:43:49 トラ撮り!(竹田恒泰氏:伊勢赤福 いすず野あそび餅 幻の4色赤福)
01:49:32 【続報】残る死刑囚の刑執行 オウム真理教の元幹部
01:50:09 文科省汚職 全局長を起訴 医科大前理事長も

 ※文部省→文科省は戦後以来、反日政策を実行している。 ニュースの先に反日日本政府あり!
男子一系は誰の知恵なのか?
2018・7・13 (1/4ページ) 社会部編集員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】
産経ニュース ドイツ人医師がみた皇太子一家の「本当の幸福な家庭生活」
「記事内容」
  家族の愛情
乃木希典(まれすけ)率いる第3軍の奮闘により、難攻不落のロシア旅順要塞が陥落した明治38年の新春、日本国内は、もうひとつの慶事に沸いた。
同年1月3日《午後七時二十八分、東宮御所御産所において、皇太子妃は第三男子を御分娩になる》(昭和天皇実録1巻72頁)
この吉報を新聞は、宮内省の正式発表を待たずに速報した。
翌4日の都新聞が書く。
  「本年は何たる目出度(めでた)き年柄ぞや、旅順の敵降伏の報ありて、人々祝賀の情に堪へざる折も折、昨日皇太子妃殿下御分娩皇孫御降誕ありとの報、雲の上より漏れ承りぬ」
明治天皇は第3皇子に宣仁(のぶひと)の名と、光宮(てるのみや)の称号をおくった。
のちの高松宮である。
当時、裕仁親王(のちの昭和天皇)は雍仁(やすひと)親王(のちの秩父宮)とともに、避寒のため静岡県沼津の故川村純義別邸に長期滞在していた。兄弟3人がそろって会うのは同年3月22日、宣仁親王が節子皇太子妃とともに沼津を訪れたときである。
もうすぐ4歳になる裕仁親王は、まだ生後80日足らずの弟に興味津々だったようだ。
この日、東宮侍従長の木戸孝正は日記に
  「迪宮(みちのみや=裕仁親王)及淳宮(あつのみや=雍仁親王)両殿下ハ至テ御機嫌克(よ)く、何より有難く存せり」と書いた。
               × × ×
裕仁親王が弟思いだったことを示すエピソードは少なくない。
つづく

               × × ×
もっとも裕仁、雍仁両親王にとって、何より嬉しかったのは母、節子皇太子妃とのふれ合いだろう。 ※昔、女性に「節子」が本当に多かった!
東京で宣仁親王を出産した節子皇太子妃に会うのは、4カ月半ぶりである。
久しぶりの母のぬくもりを、裕仁親王はどう感じただろうか。

中略
ベルツは日記に書く。
  「皇子たちに対する東宮の、父親としての満悦ぶりには胸をうたれる。まず最初、先日拝見したばかりの、一番末の皇子を見舞う。誕生後八十日にしては立派な体格、見事な発育で、お母さん似だ。上の二人の息子は現在、ほぼ四歳と二歳半になるが、まことに可愛らしい。行儀のよい、優しくて快活な坊やである。長男の皇子は穏やかな音声と静かな挙止とで、非常に可愛らしく優しいところがある。次男の皇子はいっそうお母さん似で、すこぶる活発で元気だ。(中略)今では東宮一家は、日本の歴史の上で皇太子としては未曾有のことだが、西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活、すなわち親子一緒の生活を営んでおられる」
 ※天皇家は日本国の国主の地位にありながら、政治に翻弄され続けている。
普通の日本人には常識外れの耐え難い高貴なご身分、紆余曲折があったろうに、先人達は皇紀2678年間、よくぞお守りして来られたと今更ながら思う。
遺伝子学さえない古来から続く男子一系、誰の知恵なのか? 
馬鹿な共産かぶれの反日日本人と反左翼日本人活動家、シナ、韓国、北朝鮮の外国勢力が日本の皇室を破壊すべく工作を続けている。
男子一系こそ日本国の姿、権威である! 
日本人が日本人(臣民)である限り、男子一系だけは是が非でも守り抜かねばならない。
覚悟せよ、日本人!
ビックリ・玉音で十分なのに・・・ここまでなさらなくても! 
2018・6・26
産経ニュース 両陛下、大阪北部地震でお見舞金
「記事内容」
天皇、皇后両陛下は26日、大阪北部地震で大きな被害を受けた大阪府に対し、お見舞金として金一封を贈られた。
宮内庁の直江利克総務課長が、大阪府の東京事務所長に手渡した。
続いて両陛下は同日、静養のため、神奈川県葉山町にある葉山御用邸に向かわれた。28日まで滞在される予定。
 
※こんなニュース初めて! 過去に前例があるのか?
日本人一同、御礼申し上げます。

天皇陛下から賜った見舞金は使わず震源地の市町村役場で大切に末代まで保管すベキ!
世が世なら原発被災地とて御領内・御心をお痛めの両殿下!
2018・6・10 
両陛下、事故後初めて福島原発周辺ご覧に
「放送内容」
福島県を訪問中の天皇皇后両陛下が福島第一原発の事故後、初めて帰還困難区域を通り、原発周辺の地域をご覧になりました。
午前11時過ぎ、両陛下は常磐自動車道を通り、福島県大熊町や双葉町などを車で通過されました。
宿泊先のいわき市のホテルから南相馬市で行われる
  「全国植樹祭」の会場に向かうためで、両陛下が福島第一原発の事故後、帰還困難区域に入られるのは初めてのことです。
双葉町に入り、福島第一原発の一部を望める場所の近くを通ると、両陛下が乗った車はスピードを落としていました。
原発周辺の地域には、今も、放射能を含んだ土嚢がいくつも置かれていて、荒れ果てた状態の田んぼなども放置されたまま広がっています。
さらに、放射線量の値を示す表示板もあり、今月5日、双葉町では3.0マイクロシーベルトを計測していました。
両陛下は移動の途中、料金所に立ち寄り、皇后さまは出迎えた広野町や楢葉町の住民らに「これから町がより一層にぎやかになるといいですね」などと声をかけられていました。
両陛下は午後、「全国植樹祭」に出席し、津波で大きな被害を受けた沿岸部で、海岸防災林となる木を植樹されます。
 
※日本人は現憲法下、形だけの民主主義、個人主義、行き過ぎ歪んだ自由主義国家日本、日本人は今、心から幸せなのだろうか? 日本政府(国地方の統治機構)を信頼しているのだろうか?
天皇家にお生まれになられた宿命・皇子の養育と臣下の覚悟
2018・6・ (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】
産経ニュース 宿命の母子別離 皇子の養育は薩摩藩士に託された 
「記事内容」
  運命の皇子(2)
明治34年5月28日、生後30日の裕仁親王(のちの昭和天皇)は東宮大夫の中山孝麿に抱かれて皇居賢所を参拝し、明治天皇と初めて対面した。
その偉大さから大帝と呼ばれた明治天皇が、見るからに健康そうな孫の様子に目を細めたのは疑いない。
この日、祝賀に参内した閣僚らが命名式に続く2回目の万歳をしたと、当時逓信相だった原敬が日記に書いている。
一方、16歳の若さで母となった節子皇太子妃は、この頃なぜか沈みがちだった。
          × × ×
話は親王誕生の1カ月余り前にさかのぼる。
桜のつぼみがふくらみはじめた3月22日、宮中の重臣らが集まり、内密の会議を開いた。
生まれてくる皇孫を誰に預けるか、決めるためである。
天皇家の子女は、臣下の家で養育されるのが長年の慣行だ。
明治天皇は公家の中山忠能(ただやす)のもとで、大正天皇も同じ中山家で育てられた。
もっとも中山家は明治天皇の生母、中山慶子の実家であり、臣下とはいえ血縁は濃い。
この先例に従うなら、節子皇太子妃の実家、九条家が適役だろう。
九条家は五摂家のひとつで、公家最高位の家格である(※1)。
つづく
          × × ×
天空に再会の星が輝く七夕の7月7日、生後70日の裕仁親王は
  《東宮御所正殿において皇太子・同妃に御拝顔の後、(午前)九時馬車にて御出門、市民奉迎のなか麻布区飯倉狸穴町の枢密顧問官伯爵川村純義邸に御移転になる》(1巻13頁)。
この別離が、のちの母子関係に少なからぬ軋轢(あつれき)を生むようになるのだが、それは後述する。
中略
むろん、節子皇太子妃の気持ちは、川村も痛いほど分かっていた。
以後、川村は親王養育に、自らの命をすり減らすほど打ち込んでいく--。( 毎週土曜、日曜掲載)
               
  (※1)
五摂家は鎌倉時代以降、摂政・関白を独占した名門中の名門で、近衛・九条・二条・鷹司(たかつかさ)の5家。
その家格は高く、明治になるまで御所の席次は関白-准三宮(太皇太后、皇太后、皇后に准じた待遇)-太政大臣-左大臣-右大臣-親王-の順で、五摂家の権威は親王家以上だった
               
  【参考・引用文献】
 ○宮内庁編『昭和天皇実録』1巻
 ○同『貞明皇后実録』1、2巻
 ○田中光顕監修、長野新聞編『聖上御盛徳録』(長野新聞)
 ○甘露寺受長『背広の天皇』(東西文明社)
 ○エルウィン・ベルツ『ベルツの日記〈上〉』(岩波書店)
玉音!
2018・6・2 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】
産経ニュース 玉音が厳かに告げた終戦 その日、列島は涙に包まれた
「記事抜粋」
  玉音放送(1)
東京は、からりと晴れていた。
連日の空襲警報もなく、静かに時が流れていた。
昭和20年8月15日正午、ラジオから流れるアナウンサーの声。
  「只今(ただいま)より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様、ご起立を願います。重大発表であります」
続いて君が代が奏楽され、玉音が、厳かに終戦を告げた(※1)。
  《朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(ソ)四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ》
  《交戦已ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス 戦局必スシモ好転セス 世界ノ大勢亦(また)我ニ利アラス 加之(しかのみならず)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ 終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ》
  《惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス》
つづく
          × × ×
このほか、当時の文筆家らは、こんな日記や手記を残している。
  「警報。ラジオが、正午重大発表があるという。天皇陛下御自ら御放送をなさるという。『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおつしやつたら、みんな死ぬわね』と妻が言つた。私もその気持ちだつた。十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であつた。遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉(せみ)がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」(作家、高見順)
つづく
一方、栃木県奥日光のホテルの一室では、学習院の制服姿の少年が一人、ラジオの前に正座し、両手の拳を握りしめながら、玉音の一言一句に耳を傾けていた--。
 
※天皇陛下はご無念であらせられる中、よどみなく玉音をご初声になられたと今更ながら驚かされている。
流石、我ら大和民族が誇れる天皇陛下であられる。
               

  (※1)玉音放送 
ポツダム宣言受諾による日本の敗戦を、昭和天皇が国民に直接告げたラジオ放送。前夜に昭和天皇が音読し、録音した「大東亜戦争終結に関する詔書」(終戦の詔書)が、昭和20年8月15日、国内だけでなく外地の在留邦人、日本軍将兵に向けて流された。当日は朝から「正午に重大放送がある」「天皇陛下が自ら放送される」「国民は必ず聴取するように」などの予告がラジオや新聞の特報で告げられ、多くの国民がはじめて昭和天皇の声を聞いた。その一方、戦時下における劣悪な放送環境により、「雑音がひどかった」「あまり聞き取れなかった」とする証言も多い。放送後、積極侵攻作戦中止の大陸令、大海令が発せられ、当時国内に計370万人、国外に計360万人以上の兵力を有していた日本軍は一夜にして銃を置いた。その影響は大きく、公式の戦争終結は降伏文書に調印した9月2日だが、玉音放送が流れた8月15日をもって終戦の日と記憶されることになった
               
  【参考・引用文献】
○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
○内田百●『東京焼盡』(大日本雄弁会講談社)
○中村正吾『永田町一番地』(ニュース社)
○高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社)
○桑原武夫編『伊東靜雄全集』(人文書院)
○徳川夢声『夢声戦争日記』5巻(中央公論社)
○永井壮吉(荷風の本名)『永井荷風日記(断腸亭日乗)』7巻(東都書房)
○安岡章太郎『僕の昭和史(1)』(講談社)
国民に出来る事ではない!
2018・5・30
産経ニュース 両陛下“最後”の宮中晩餐会 心込められた国際親善
「記事内容」
天皇、皇后両陛下が30日、ベトナムのチャン・ダイ・クアン国家主席夫妻を国賓として歓迎行事と宮中晩餐(ばんさん)会でもてなされた。
即位以来30年、皇后さまと二人三脚で国際親善に心を尽くしてきた天皇陛下にとり、今回が最後の国賓接遇の機会となる可能性もあり、相手国への思いやりを随所に見せられた。
午前9時20分ごろからの歓迎行事に続き、皇居・宮殿で行われたご会見。
会場に向かう廊下で、陛下は昨年のベトナム訪問を懐かしそうに振り返り、会見でも
  「温かい歓迎を受けた」と謝意を示された。
国家主席夫妻から4人で撮った写真に装飾した砂絵を贈られる場面もあり、会話を弾まされていたという。
午後7時半過ぎに開宴した晩餐会。
陛下はお言葉の中で、日本とベトナム両国間を往来した人々が昨年計100万人を超えたことなどに触れ、
  「様々な交流が深まっていることを心から喜ばしく思います」と述べられた。
昨年の訪問時、古都フエで、皇室に伝わる雅楽と起源が同じとされる宮廷音楽の
  「ニャーニャック」を鑑賞された両陛下。
この日の晩餐会場では、8世紀にフエから日本に伝わった
  「抜頭(ばとう)」という雅楽の曲目を宮内庁楽部が披露した。
歓迎行事から晩餐会まで一日がかりのもてなしに加え、今回は6月1日にベトナムとの外交関係樹立45周年記念のレセプションに臨席するほか、2日には国家主席夫妻の宿泊先である迎賓館に赴き、別れのあいさつも交わされる。
相手が国王の場合、日帰りで近県を案内されることもある。
宮内庁関係者によると、国賓の滞在中は、一日の予定を終えて宿泊先に戻ったのを確認してから就寝されるという。
接遇の手順は煩雑で、30日の歓迎行事では、陛下が赤じゅうたんの上での立ち位置を確認するため振り返られ、宮内庁幹部が手で示す場面もあった。
例年秋にも国賓を招くことが多いが、宮内庁は高齢の両陛下にはご負担が大きいと政府に伝えているという。
今回が最後の国賓ご接遇の可能性もあるが、側近は
  「両陛下には最後かどうかということは関係なく、一度一度の機会を大切に、心を込めて取り組まれている」と慮った。
 
※天王陛下にご苦労をおかけいたします。
お歳をお召しになられた証、何時までもお元気にお過ごしになられますようにお祈り申し上げております。
絵画の方が安全かも・・・
2018・5・28 ユーチューブ
外国人衝撃!!「モナリザ級の傑作だ!!」天皇皇后両陛下の初の肖像画の完成に海外が注目!!退位を前に 外国人が思わず口にした言葉が…【海外の反応】
「記事内容」
ナシ
 
※ユーチューブで初めて知った!
両陛下は日本人の為、お姿を絵画でお残しくださった!
阿南陸相の切腹!
2018・5・27 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】
産経ニュース クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した
「記事抜粋」
  宮城事件(2)
昭和天皇の玉音放送を収めた録音盤を奪取すべく、決起将校に率いられたクーデター部隊が宮城内に軍靴を響かせていた昭和20年8月15日未明、陸軍首脳で唯一抗戦派に理解を示していた陸相の阿南惟幾(これちか)は、大臣官邸の自室で最後の杯を傾けていた。
午前1時半、クーデター計画に関わった義弟の竹下正彦中佐が阿南を決起させようと訪れた。
だが、すでに自決の準備をしているのをみて説得を諦めた。
竹下は日誌に書く。
  「(阿南が)平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、(切腹を)仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、否、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ」
          × × ×
最後まで徹底抗戦を訴えた阿南だが、実は中堅将校らの暴発を抑えるため敢えて先頭に立ったのであり、暗黙のうち終戦工作に協力していたとする説もある。
首相の鈴木貫太郎も戦後、
  「若(も)し、彼にして偏狭な武弁であり、抗戦のみを主張する人ならば、簡単に席を蹴つて辞表を出せば、余の内閣などは忽(たちま)ち瓦解(がかい)して了(しま)うべきものであつた」と述懐する。
しかし阿南は内閣瓦解を防ぎ、その職務を全うした。
自決の前夜、阿南は鈴木のもとを訪れ、こう語っている。
つづく
          × × ×
自刃の一報は、すぐにクーデター部隊の将校らに伝わった。
それは、命と引き替えの諫止(かんし)と聞こえたに違いない。
近衛歩兵第2連隊第1大隊長の北畠暢男(のぶお)はのちに、
  「この時点で私は、天の時は過ぎたのだ、と覚悟するに至りました」と述懐している。
阿南の自刃により、宮城事件は急速に収束へと向かう。
つづく
          × × ×
一方、首謀者の畑中健二少佐は最後の手段として、クーデター部隊の一部が占拠した東京・内幸町の放送会館に乗り込み、日本放送協会(NHK)報道部の柳沢恭雄副部長に拳銃を突きつけた。
  「決起の趣旨を訴えたい。放送させよ。さもなければ撃つ」
だが、柳沢は無言のまま動かなかった。
ここに畑中も決起の終末を知る。
つづく
          × × ×
昭和天皇が宮城事件の顛末(てんまつ)を知ったのは、夜が明けてからだった。
  《侍従武官長蓮沼蕃(しげる)は東部軍管区司令官と同道、御文庫に参殿、七時三十五分に単独にて拝謁し、事件の経過並びにその鎮圧につき奏上する。八時、天皇は侍従長藤田尚徳(ひさのり)をお召しになり、事件の発生を嘆かれる》
この日、快晴。
正午がゆっくり近づいていた--。
               ◇
  (※1)畑中少佐らが殺害した森師団長の遺体は15日早朝、検視もしないまま司令部近くの窪地で荼毘(だび)に付されたが、その理由や経緯については諸説ある。
遺骨は師団長室の隣にあった貴賓室に安置された。
なお、宮城事件で森師団長ら2人が殺害され、畑中少佐ら3人が自決したほか、事件を鎮圧した東部軍管区の田中司令官も9日後の8月24日に自決した
               
  【参考・引用文献】
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫)
○鈴木貫太郎口述「終戦の表情」(外務省編『終戦史録』所収)
○北畠暢男「玉音盤奪取の偽師団長命令」(『文藝春秋』平成17年9月号所収)
○森下智『近衛師団参謀終戦秘史』(非売品)
○宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
 
※今の政治家と役人に切腹する覚悟が無さ過ぎる!
神道を勝手に誤解する白人至上主義者のキリスト一神教信者!
2018・5・25 (1/4ページ) 【正論】
産経ニュース 神道はなぜ「敵役」にされたのか 東京大学名誉教授・平川祐弘
「記事内容」
  ◆天正遣欧使節は宣伝用だった
  ◆「新宗教」が布教を妨げる?
  ◆人種偏見と結びつく宗教文化論
昭和20年12月、占領軍総司令部は神道指令を出し、国家(神社)神道の政治的影響力の排除を命じたが、その際、State Shintoの訳語として国家神道は日本語に定着した。
翌年元旦、昭和天皇はGod-Emperorは「架空ナル観念」であると宣言した。
ユダヤ・キリスト教では創造主は人を創る全能のゴッドだが、日本の天皇は違う。
神道では人が死んで神になり、神棚に先祖は祀られる。
日本では人は死ねば「神去ります」。
その神道の神をGodなどと訳すから、誤解は生じた。
だが「天皇は日本人のゴッドだ」と言い出したのは、日本兵の強固な戦意におびえた人々の解釈で、それがまた米英人の敵愾(てきがい)心を強めた。
宗教文化論は人種偏見と結びつきやすい。
神道脅威論は黄禍論の一変形かもしれない。
安倍晋三首相が先進7カ国首脳会議を伊勢志摩で2016年に開催したときも奇妙な批判が出た。
しかし神道をこうして敵役(かたきやく)に仕立てたのはおかしくないか。
今では米国大統領も明治神宮に参拝する。
クリントン国務長官はお祓(はら)いも受けた。
軍部が日本を泥沼に引きずり込んだ戦争は愚かだが、それでも
  「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」と教えられたことはない。
八紘一宇はそんな意味だとする米国側解釈こそ
  「架空ナル観念」だったのではなかろうか。
宗教文化史的誤解はやはり解いておきたい。
 
※一神教信者には宗教と神道(経典無し・大和民族の生活習慣と風習)、道の違いが分かるまい!
白人は世界で最も優秀な大和民族が怖いのだが、反トランプ勢力である世界統一派は今も新自由主義者の嘘つき安倍総理を使い日本国と日本人を壊し続けており、天皇陛下さえ危機を迎えている。

耐え難きに耐え、忍び難きに忍び・御聖断を下された天皇陛下!
2018・5・20 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】
産経ニュース 「万民の生命を助けたい」…天皇は何度も手袋で眼鏡をぬぐった

「記事抜粋」
  涙の聖断(2)
  《天皇は、国内外の現状、彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を決意したものにして、変わりはないこと、我が国体については外相の見解どおり先方も認めていると解釈すること、敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断(※1)に倣い、決心した旨を仰せられ、各員の賛成を求められる》(昭和天皇実録34巻45頁)
昭和20年8月14日の正午前、真夏の太陽が届かない地下10メートルの御文庫附属室で厳かに下された、戦争終結を告げる聖断--。
  『昭和天皇実録』には要約しか記されていないが、この聖断の一字一句を、内閣情報局総裁として出席した下村宏が、ほかの出席者の手記やメモとも照らし合わせて戦後に書き残している。
周囲がしんと静まる中、昭和天皇はこう言った。
          × × ×
  --外(ほか)に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。
反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。
私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。
つづく
          × × ×
御文庫附属室のコンクリート壁をも震わす玉声。出席者の誰もが泣いていた。
激しく嗚咽(おえつ)する者もいた。
昭和天皇もまた、白い手袋で何度も眼鏡を拭った。
聖断は下された--。
  下村は書く。
  「陛下は席をたゝれた。一同は涙の中にお見送りした。泣きじやくり泣きじやくり一人々々椅子を離れた。長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となつても、首相官邸へ引き上げても、たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしやくり上げ、涙は止め度もなく流れる……」
 
※皇室は日本人の宝であり、日本人は皇室を未来永劫お守りする義務と責任がある。
               ◇
  (※1)三国干渉時の明治天皇の御決断 1894~95(明治27~28)年の日清戦争で勝利した日本は、清国との講和条約により遼東半島の割譲を受けたが、これに反発するロシアが領有を放棄するよう日本に勧告。
ドイツとフランスも追随した。
日本は御前会議を開いて対応を協議し、イギリスなどに働きかけて3国の干渉を排除しようとしたが、武力を誇示するロシアの圧力に抗しきれず、遼東半島の返還を決定。
明治天皇が詔勅で国民に告げた。
以後、日本は
  「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国力の増強に努め、1904~05(明治37~38)年の日露戦争でロシアの陸海軍を撃破。
三国干渉の雪辱を果たし、アジアの強国となった
               
  【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社)
耐え難きに耐え、忍び難きに忍び・御聖断を下された天皇陛下!
2018・5・19  社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた 

「記事抜粋」
  涙の聖断(1) 
※卑怯なアメリカ!
帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、空から落ちてきたのは、爆弾ではなく紙だった。
  「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」
翌14日の早朝、米軍機B-29がビラを散布したとの情報を得た内大臣の木戸幸一は愕然とした。
政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。
首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。
もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣から正式な手続きをとって御前会議を開くのでは間に合わない。
鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。
以下、『昭和天皇実録』が書く。
  《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を賜い、米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつありとの情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の言上を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。引き続き、特に思召しを以て内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》(34巻43頁)
戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、首相と内大臣が並んで拝謁するのは初めてだ。
昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。
このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による御前会議開催を求め、その場で許された。
これも前例のないことだった。
続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。
  《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、昭和天皇は《戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同)
          × × ×
同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、全閣僚と陸海両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が御文庫附属室に集められた。
閣僚らは正装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。
御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。
10トン級の超大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、厚さ1メートルのコンクリート壁で仕切られている(※2)。
中略
  「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。陸海軍の共同も決して十分ではありませんでした。これからは過ちを改め、心を入れ替え、最後の奮闘をいたしたいと思います。本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争を継続することをお願い申し上げます」
三人の発言のあと、再び静寂。
しばらくして、昭和天皇が口を開いた--。 
※たったお一人で下された天皇陛下の御聖断、思いを推察すれば、ただただ頭を下げるしかなく、日本人として凄い御方と心の中で感謝するしかないが、天皇陛下のご聖断に大日本帝国皇民が一斉に従った事も凄いし立派である。
皇居前に皇民が平伏し涙を流す写真が頭に浮かんでる。

               ◇

  (※1)バーンズ回答 
国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。
対日強硬派で知られる米国務長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。
ポツダム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、政府と軍部は大混乱に陥った。 
※政府と軍部の驕りが良く現れている一場面だが、ここに来て嘘つき安倍総理は同じ過ちをやらかし、失政を繰り返している。
嘘つき安倍総理は道化の宴会屋に過ぎないのだろうが、子育てをした経験も無く、己の失政で子や家族に恥をかかせたくないと言う思いも無かろう。

  (※2)御文庫付属室 
日米開戦前の昭和16年9月、陸軍築城部本部が皇居の吹上御苑内に造営した防空施設。陸軍は当時、昭和天皇の住居を兼ねた地上1階地下2階の防空施設「御文庫」の建設を進めており、それが完成するまでの予備施設として、付属室がつくられた。17年7月に御文庫が完成。
500キロ爆弾に耐えうる構造で、付属室との間に地下道も作られたが、米軍がヒトラーの山荘を10トン爆弾で空襲したとの情報があり、陸軍は20年6~7月、付属室の補強工事を実施。
超大型爆弾にも耐えうる日本最強の防空施設とした
               
  【参考・引用文献】
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社)
○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)
仁徳天皇陵
2018・5・18 (1/5ページ) 小畑三秋 【萌える日本史講座】
産経WEST 古代の「聖帝」裏付け? 仁徳天皇陵は500メートル以上の超巨大古墳だった
「記事抜粋」
国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、全長486メートル、5世紀前半)が、築造当初は現在より約40メートル長い525メートル以上あったことが宮内庁の調査で明らかになった。
現在は水で覆われている周濠(しゅうごう)内の地形を測量して判明した。
エジプトにあるクフ王のピラミッド、中国・秦始皇帝陵(しんのしこうていりょう)と並ぶ世界三大墳墓とされる同古墳。
500メートルの大台を超える規模は、
  「仁に篤(あつ)く徳が高い」という名の聖帝にふさわしい威容を示したともいえる。
被葬者の謎にどこまで迫ることができたのか。
  周濠の底を測ってみたら…
  被葬者に近づいた?
  豊臣秀吉も花見に興じた仁徳陵 
※日本に根付いた墓地の花見文化!
中略
同古墳を含む百舌鳥・古市(ふるいち)古墳群の世界文化遺産登録の可否は、来年夏に決まる。
今も地元では「仁徳さん」「ご陵さん」と呼ばれる仁徳天皇陵。
秀吉が愛し、時代を超えて人々に親しまれ続ける。
世界に誇れる日本国の皇室・誇れよ日本人!
2018・5・12 ユーチューブ
【天皇・皇室】外国人「まるで別の惑星の式典を見てるかのようだ!」世界中が日本の凄さを痛感した天皇即位の礼のある光景とは?!【海外の反応】
「コメント」
ナシ
 
※多くの投稿あり!
満洲国・関東軍!
2019・5・12 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載  【昭和天皇の87年】
産経ニュース タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校

「記事抜粋」
  クーデター計画
中略
まさしく阿南は西郷隆盛のように苦悩し、葛藤し、逡巡(しゅんじゅん)していた。そして翌朝、決心が持てぬまま行動に出る。
          × × ×
 以下、昭和天皇実録が書く。
中略
彼らの思想は、「狂信的」の一言で断罪できるものではないかもしれない。
ただ、彼らは知らなかっただろう。
地上戦に巻き込まれた民間人がみる地獄を。
その地獄がこの日、この瞬間、満州の広野で起きていた--。
 ※外地の満州の地で、穏やかな日本人と満州人は別にして、野蛮で異質なシナ人と朝鮮人が入り乱れる中、そもそも、帝国軍人・関東軍が始末の悪いシナ人と朝鮮人、ロシア軍を前に平然と構えていられる状況にあったのか?
当時は軍人が胸を張り闊歩していた日本、政治家と役人は満州国の状況を把握していたのか? 
少々疑わしいのだが・・・

               
  (※1)
南洲翁こと西郷隆盛は、明治10年の西南戦争で旧薩摩藩士にかつがれて挙兵し、政府軍に敗れ自刃した。
明治維新の元勲であり、皇室尊崇の念が強かった西郷だが、挙兵により「逆賊」とされ、官位を褫奪(ちだつ)された。
しかしその後、西郷をしのぶ明治天皇の意向もあり、明治22年の大赦でゆるされて正三位を追贈された。
  (※2)
ノモンハン事件は1939(昭和14)年5~9月、満州とモンゴルの国境で発生した関東軍とソ連軍の軍事衝突。
不拡大方針をとる日本政府と陸軍中央に対し、関東軍は作戦参謀の辻政信らを中心に越境攻撃を計画、独断専行した。
だが、ソ連軍の猛攻を受け、結果的に計1万7400人余の死傷者を出して敗退した(のちにソ連軍も大損害を受けていたことが判明)。
それ以前にも関東軍は一部将校による独断専行が多く、陸軍中央はノモンハン事件後に人事を一新。
二・二六事件後の粛軍に尽力した梅津美治郎を軍司令官とした。
梅津はその任を果たし、以後、関東軍の統制違反はほとんどなくなった。
               ◇
  【参考・引用文献】
○竹下正彦「機密作戦日誌」(軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』新装版下巻所収)
○林三郎「終戦ごろの阿南さん」(雑誌『世界』昭和26年8月号)
◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
○雑誌『世界』昭和26年8月号所収の高木惣吉「連合軍進駐の前後」
◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)所収の「大井篤手記」
日本人女性の鏡・気品と教養を備えられた美智子妃殿下!
2018・5・9  (1/5ページ) 新田夛美子 【ボストンから一言(11)】
産経ニュース 気品と教養を備えられた皇后・美智子様「あれほど気高い方、世界の皇族でもおられない」元大使夫人が敬服
「記事内容」
駐日米国大使を務めたエドウィン・ライシャワー氏の夫人、ハルさんが亡くなってはや20年がたつ。
今となっては、あれも聞いておけばよかった、これも聞いておけばと思うことが多々ある。
親しくなった夫妻とこんな会話をしたことがある。
  私「また生まれ変わるとしたら、ハルさんと一緒になりますか」
  ライシャワー氏「(笑いながら)さあ、どうしましょうかね」
  ハルさん「しませんよ。この人、真面目すぎて面白くないのよ」
ためらうことなく否定をしたハルさんに、質問をしてみた。
  私「ご主人は誠実な人柄で、その上、学者ですから、大使になられて“丁々発止”の駆け引きはできなかったのではありませんか」
  ハルさん「そうね。エドは嘘がつけない正直な性格ですから、大使の仕事は向いてなかったですね」と、どのような質問にも誠実に答えてくれる人柄だった。
日本で大使を務めたいたライシャワー氏が昭和34年に19歳の少年に刺され重傷を負ったときは、病院に長期入院をした。
この時の輸血によって生涯肝炎に苦しむことになる。
  ハルさんは「父親を見舞いにきた子供たちから、病院が不衛生だと大変責められてね。すぐに米軍の病院に移せと大変だったの」としみじみ話していた。
また、ライシャワー氏は脳卒中や脳内出血にも見舞われ、ハルさんは
  「外国語である日本語をつかさどる脳部位が駄目になって日本語が流暢(りゅうちょう)にできなくなったの」と教えてくれた。
  元大使を利用する人…
  その姿に敬服
  日本人以上に日本を知る男性にひかれた
つづく
          ◆       ◆
  ここからは私のがんの治療に関するお話です
つづく
 
※美智子妃殿下はお若かりし頃、週刊誌が色々書きお悩みになれご苦労なさられたご様子だったが、愚痴一つ漏らさず、天皇陛下にお仕えなさり、日本人として見本をお示しになられておいでになられていた。
雅子妃に在られましても、お歳をお召しになれれば、美智子妃殿下同様、国民からお慕いされるのであろう。
天皇陛下の御心!
2018・5・3 チャンネル桜 日本人必見動画!
【台湾CH Vol.231】天皇陛下の与那国島行幸で明かされた日台の近さ / 日本最古の地球儀で知る台湾歴史 / 台湾で2020「台湾正名」国民投票に向け署名活動始動[桜H30/5/3]
「放送内容」
台湾チャンネル第231回は、
  ①天皇陛下が台湾と至近距離の与那国島へ行幸。台湾での反応は? 
※台湾国民がご訪問をお待ちですよ!
  ②17世紀の日本現存最古の地球儀に台湾は如何に描かれているか?知られざる台湾歴史とは?
  ③台湾で2020東京五輪台湾正名をめぐる国民投票を推進する運動が本格化。
  ④ゴールデンウィークに東京で台湾正名活動が開始。
  キャスター:永山英樹・謝恵芝
日本国をお守りくださった天皇陛下(守護神)!
2018・4・21 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 激高する軍部 天皇は「至極冷静に」対応した

「記事抜粋」
  バーンズ回答の衝撃(1)
昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により、
  「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報-。
その回答が、12日に返ってきた。
  「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にsubject toする…」
外務省に、激震が走った。
(be)subject toの意味は「支配下にある」、もしくは「従属する」だ。
これを直訳すれば抗戦派が激怒するに違いない。
つづく
          × × ×  
なぜアメリカは、日本側が受け入れがたい回答をよこしたのか。
実は、日本からのポツダム宣言受諾電報について米大統領ハリー・トルーマンが側近らと協議した際、陸軍長官ヘンリー・スチムソンと軍事顧問ウィリアム・リーヒーは国体護持の条件を承認すべきだと主張した。
これに対しバーンズが、日本側が持ち出した条件を受け入れる形はとりたくないとして、自らペンをとって回答文を起草したのだ。
つづく
  【参考・引用文献】
 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
 ○迫水久常『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』(ちくま学芸文庫)
 ○河辺虎四郎『市ケ谷台から市ケ谷台へ 最後の参謀次長の回想録』(時事通信社)
 
※アメリカは国際軍事裁判判決により、アメリカ軍の戦争犯罪を全て嘘で覆い隠し、今仁至っている。
アメリカ人は大東亜戦争の事実を知れ! 嘘が罷り通る社会が気持ちが悪くないのだろうか? 
不敬な産経よ、皇太子殿下と記せ!
2018・4・5 【天皇陛下譲位】
産経ニュース 天皇陛下、大嘗祭など即位の儀式に出席されぬご意向
「記事内容」
皇太子さまが新天皇に即位されるのに伴う一連の儀式に、上皇となった天皇陛下が出席されない意向であることが4日、宮内庁関係者への取材で分かった。
陛下は譲位後に象徴としての全ての公務を皇太子さまに譲る考えを示しており、即位の儀式も同様に位置づけられているとみられる。
政府は3日の閣議で、皇太子さまが新天皇に即位される来年5月1日に三種の神器などを引き継ぐ
  「剣璽(けんじ)等承継の儀」を、同10月22日に即位を国内外に示す
  「即位礼正殿の儀」などを国事行為として行うことを決定。
宮内庁は即位後最初の新嘗祭である
  「大嘗祭(だいじょうさい)」を同11月14~15日に執り行う方針を示している。
剣璽等承継の儀は平成のお代替わりを踏襲し、皇位継承資格のある男性皇族のみが出席することも決まったが、陛下の譲位を可能とする昨年6月の特例法では、上皇は皇位継承資格を持たないとされている。
即位礼正殿の儀や大嘗祭については、上皇の出席の有無について定めていないが、陛下は一連の儀式全てに出席しない意向を持たれているという。
宮内庁は今秋にも譲位・即位に関する委員会を立ち上げ、儀式の詳細について検討する。
 
※賢明なご判断と思う。
皇室に二つの権威を決して生んではならない。
反日日本政府は日本人を騙すなよ!
2018・3・31 (1/4ページ) 【天皇陛下譲位】
産経ニュース 譲位と即位 政府基本方針全文
「記事抜粋」
天皇陛下の譲位(退位)と皇太子さまの新天皇即位に伴う儀式の在り方をめぐり、政府が定めた基本方針の全文は次の通り。
 
※「さま」を使うな! 記事を書いた人間は日本人か? お里が知れるぞ!
               
天皇陛下のご退位および皇太子殿下のご即位に伴う式典の挙行に係る基本方針
天皇陛下のご退位および皇太子殿下のご即位に伴う式典準備委員会は、天皇陛下のご退位および皇太子殿下のご即位が、国民の祝福の中でつつがなく行われるよう、関連する式典の準備を総合的かつ計画的に進めるための基本方針を下記の通り取りまとめた。
今後、第1から第5までについては閣議決定を、第6については閣議口頭了解を行い、政府を挙げて万全の準備を進めることとする。
  第1 各式典の挙行に係る基本的な考え方について
各式典の挙行については、次の基本的な考え方に基づき、準備を進めることとする。
  1 各式典は、憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統などを尊重したものとすること
  2 平成のお代替わりに伴い行われた式典は、現行憲法下において十分な検討が行われた上で挙行されたものであることから、今回の各式典についても、基本的な考え方や内容は踏襲されるべきものであること
中略
大嘗祭の挙行については、
  「『即位の礼』・大嘗祭の挙行等について」(平成元年12月21日閣議口頭了解)における整理を踏襲し、今後、宮内庁において、遺漏のないよう準備を進めるものとする。
 ※天皇陛下はご満足なのだろうか? 皇太子殿下はご満足なのだろうか? 
なぜか? 御世変わりは日本人にとって大切な時期、宮内庁が勝手にやっているのだろうが、日本人に天皇陛下と皇太子殿下の御心が全く伝わってこない!
歴史の重み・御前会議
2018・4・1 (1/3ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土日掲載 【昭和天皇の87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 軍部を叱責した天皇 かくて最初の聖断は下された
2018・3・31 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土日掲載 
【昭和天皇の87年】 日本人必見記事!
産経ニュース 第1回御前会議 形勢を左右した枢密院議長の発言

「記事抜粋」
  大日本帝国最後の一週間(6)
昭和20年8月10日午前2時過ぎ
  《(昭和天皇は)議長の首相より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。天皇は、外務大臣案を採用され、その理由として、従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、防備並びに兵器の不足の現状に鑑(かんが)みれば、機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。ついで、股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを決心した旨を仰せになる》(昭和天皇実録34巻34頁)
          × × ×
聖断は下った。
御前会議の出席者は静かに起立し、退席する昭和天皇を見送った。
この時の様子を、内閣書記官長として陪席した迫水(さこみず)久常が、こう述懐する。
  「何という畏(おそ)れ多いことであろう。御言葉の要旨は我が国力の現状、列国の情勢を顧みるときは、これ以上戦争を継続することは日本国を滅亡せしむるのみならず、世界人類を一層不幸に陥れるものなるがゆえに、この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、戦争を終結せんとするものであるという主旨であった。(中略)この御聖断によって会議は結論に到達した。真(まこと)に未曾有(みぞう)の事である。一同陛下の入御を御見送り申し上げ、粛然として満感を胸に退出した」
つづく
 
※厳しい当時、天皇陛下のご聖断と占領下の行動がヘタレナ今の政治家にとれるだろうか?
大東亜戦争前、陛下に使えた政治家と役人は国内の政治情勢(コミンテルンのスパイ)を具にご報告申し上げいたのだろうか? 
 
  (2)
「記事抜粋」

  大日本帝国最後の一週間(5)
昭和20年8月9日深夜、皇居の地下防空壕・御文庫附属室に集まった政軍首脳は、身を固くして昭和天皇を待った。
同日未明にソ連軍が満州に侵攻、正午前には長崎に原爆が落とされ、国内外の戦争被害が急拡大している。
ポツダム宣言を受諾して終戦するか、より多くの条件が認められるまで抗戦するか-。
これから日本の運命を決める天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議が始まるのだ。
つづく
  「本日突然のお召しにて何ら腹案もなく出席致しました。しかし状況はきわめて窮迫しておりますがゆえに、私の意見を申し述べます」
平沼は語気を強めた。
  「外務大臣の趣旨に同意であります」
これで、外相案への支持表明が平沼、東郷、米内の3人、不支持表明が梅津、豊田、阿南の3人。
いよいよ聖断を下す環境が整った。
首相の鈴木は、あえて自分の意見を明らかにはせず、最後にこう言った。
  「皆じゅうぶん意見を吐露したものと認めます。しかし意見の一致を見るに至らなかったことは遺憾であります」
そして静かに席を立つと、昭和天皇の前に進んで深く頭を下げた。
  「外務大臣案によるべきか、または四条件を付する案によるべきか、謹みて御聖断を仰ぎます」-(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)
               
  【参考・引用文献】
  ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
  ○池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)
               
  最高戦争指導会議 
政府と軍部のトップが連絡調整を強化し、一元的な戦争指導を行うための会議。
日中戦争が勃発した昭和12年、近衛文麿内閣のもとで発足した大本営政府連絡会議を前身とし、先の大戦終盤の19年8月、最高戦争指導会議と改称された。
構成員は首相、外相、陸海両相、参謀総長(陸軍)、軍令部総長(海軍)で、戦争指導の根本方針を策定。
また、国家の重大事には首相らの要請で天皇が臨席することもあり、その場合は御前会議と呼ばれた。
 
※こういう記事はありがたい、産経に感謝!
こういう記事を見る度に想い出す! 幼心に父(満洲出兵を経験)に「日本は何故、満州に留まらず南進したのか?」と尋ねたのだが、父は「どうしてかのう・・・」とぽつり、明快に答えてくれなかった。
今思えば幼子の私、GHQの指示で馬鹿な日本政府が言論統制を敷いていた頃の話である。
だが、この頃の先生は過ちも起こさず、立派だった。
間違いなく日本人教師ばかり、父兄も生徒も皆、尊敬した人物ばかりだったが、今思えば貧しかったが、子供達は喧嘩もしていたが皆、幸せだったと思う。
今の子供(小中学生)は幸せなのだろうか?
上奏・天皇陛下は台湾にもご配慮賜りたいです、世界が一変します!
2018・3・30
産経ニュース 両陛下、沖縄空手会館をご視察 
2018・3・29 台北=田中靖人
産経ニュース 「台湾から110キロしか離れていない」 両陛下の与那国ご訪問に台湾メディアも関心 (2)

2018・3・28 沖縄タイムス
天皇、皇后両陛下、与那国島を初訪問 天然記念物の馬と触れ合う (3)
2018・3・27 チャンネル桜 
【特番】祝!3.27 天皇皇后両陛下奉迎提灯大パレード ~主催「天皇皇后両陛下奉迎沖縄県実行委員会」~ [H30/3/31] (4)
「記事内容」
沖縄県を訪問中の天皇、皇后両陛下は29日、豊見城(とみぐすく)市の沖縄空手会館を訪問された。
会館は沖縄が発祥とされる空手や古武術の普及を図るため平成29年3月に整備。
空手が2020年東京五輪の追加種目となることが決まり、沖縄を国内外に発信する拠点としての活用も期待されている。
両陛下は沖縄空手の歴史などの展示を鑑賞した後、空手の演武をご見学。
天皇陛下は演武を行った師範らに
  「世界に広まってよろしかったですね」「どうぞ空手の発展のために努められてください」と声をかけられていた。
  (2)
「記事内容」

天皇、皇后両陛下が28日、沖縄県の与那国島を訪問されたことに対し、台湾メディアは同島が
  「台湾から110キロしか離れていない」などと関心を示した。
中央通信社は同日夕現在、関連記事を含め記事5本を配信。
一部日本メディアを引用する形で、ご学友が台湾は
  「(陛下が)気に掛けていた場所だろう」と述べたと報じた。
また、
  「日本と台湾は正式な国交がないため、天皇や皇族の訪台は非常に難しい」とも伝えた。
記事で、中央研究院の研究員は、与那国島で戦前、漁民の交流などの経済関係が「密接不可分だった」などと紹介。一方、与那国に自衛隊の部隊が設立されてから28日で2年になるとし、「北京の観点から見れば」と断った上で、同日のご訪問は「政治的なにおいがする」とした記事もあった。
 
※無事皇居にお戻りになられ、是非、日本人にとって特別な存在の台湾人の方々と天皇陛下と面会出来る機会をお与えください! 日本人の喜びでもあります。
  (3)
「記事内容」

沖縄訪問中の天皇、皇后両陛下は28日午前11時45分ごろ、与那国空港に到着した。
与那国島の訪問は初めて。
空港の正面入り口前には大勢の町民が待機し、両陛下が姿をみせると日章旗を振って歓迎。
沿道には子どもからお年寄りまでが立ち並び、島全体が歓迎のムードに包まれた。
両陛下は午前中、東牧場で同町天然記念物「与那国馬」と触れ合った。
スタッフから与那国馬の説明を受けながら、馬の頭を優しくなでるなど和やかな表情をみせた。
午後は、県指定天然記念物で世界最大級のガ「ヨナグニサン」や町立久部良小学校で伝統芸能の観覧などを予定している。
 
※不敬な輩がいないようで安心した。
台湾へも、思いを馳せて頂けましたでしょうか?

  (4)
「放送内容」

去る3月27日に沖縄県では
  「天皇皇后両陛下奉迎沖縄実行委員会」主催による提灯大パレードが開催され、天皇皇后両陛下の沖縄訪問を祝い、国際通りを4000人以上の参加者が提灯と日章旗を持って大行進した。
本日は、我那覇真子リポートによるパレードの模様をお送りします。
歴史利権で飯を喰らう戦後の歴史学者を信じろと!
2018・3・24 (1/3ページ) 小畑三秋 【今週の注目記事】
産経WEST 古代史の“七五三論争” 日本国はいつ誕生したか、天皇制につながる卑弥呼の統治
「記事抜粋」
日本という国はいつ誕生したのか-。
このテーマの議論は、研究者の間では「七五三論争」と呼ばれている。
邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれているからだ。
国内初の本格的な都、藤原宮(奈良県橿原市)や大宝律令という法律が整備された7世紀こそ「日本国成立」ともいわれるが、邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた。()
  「女王の都するところ」
  外交に長けた女王
  男子の王で戦乱
倭人伝は、卑弥呼誕生の経緯についても詳しく述べている。
  「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と記載。
寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、
  「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。
そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら
  「日本」と名乗るようになった。
太陽が昇る「日出する国」「日の本(ひのもと)の国」として、中国をはじめとした東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。
               
古代国家の形成について、寺沢さんは 
※歴史学者は寺沢氏を指すものではない!
  「弥生時代政治史研究」シリーズ(全4巻)として、
  「弥生時代国家形成史論」(吉川弘文館、3万7800円)を発刊。
シリーズとして完結した。
寺沢さんは
  「8年がかりだったが、これが私の研究生活の集大成と思って書いた」と話した。
日本人よ、大日本帝国の史実を知れ!
2018・3・17 (1/4ページ) 社会部編集委員 川瀬弘至 【昭和天皇の87年】
突然のソ連侵攻に狼狽する軍部 そのとき、天皇が敢然と動いた

「記事抜粋」
  大日本帝国最後の一週間(1)
漆黒の闇の中、大粒の雨が大地を激しく打っていた。
国境付近に集結した数十万のソ連軍を照らす月明かりはなく、戦車のエンジン音は雨音にかき消された。
昭和20(1945)年8月9日午前零時、危機の迫る満洲(現中国東北部)は、いまだ深い眠りの中にあった。
その1時間前、モスクワのクレムリンでは、駐ソ大使の佐藤尚武が顔面を蒼白(そうはく)にして、ソ連外相モロトフが読み上げる宣戦布告状を聞いていた。
  「……即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス……」
佐藤は口元をゆがめ、無理に笑みを作ってみせた。
ここで抗議しても何も変わらない。
今は一刻も早く本国に知らせなければ。
  「ただいまの通告を、外交特権で東京に至急打電したい。よろしいですね」
  「もちろんだ」
クレムリンを辞去した佐藤は日本大使館に車を急がせた。
だが、開戦を告げる電報はソ連当局に妨害され、東京へは届かなかった。
          × × ×
満洲は、まだ眠っている。
首都新京(現吉林省長春市)の関東軍総司令部も、ひっそりとしている。
総司令官山田乙三は大連(現遼寧省大連市)に出張中で、留守を預かる総参謀長や高級参謀らは官舎で就寝中だった。
午前1時、当直参謀室の電話が鳴った。
  「東寧(とうねい)及び綏芬河(すいふんが)正面の敵、攻撃を開始せり」
  「牡丹江(ぼたんこう)市街は敵の空襲をうけつつあり」
満洲東部を守備する第5軍司令部からの緊急報告。
受話器を握る参謀の手が震えた。
続いて新京郊外が爆撃を受け、各方面軍からも被害報告が飛び込んでくる。
ついにソ連軍が日ソ中立条約を破り、東部、北部、西部の三方から一斉に攻め込んできたのだ。
つづく
宮内庁が平成2年以降、24年の歳月をかけて編集した『昭和天皇実録』に、こう記されている。
8月9日
  《午前九時三十七分、(昭和天皇は)御文庫において陸軍参謀総長梅津美治郎に謁(えつ)を賜(たま)い、戦況の奏上を受けられる。午前九時五十五分、御文庫に内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣に対し、ソ聯邦と交戦状態突入につき、速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要があると思うため、首相と十分に懇談するよう仰せになる》(34巻31頁)
戦況の奏上を受けてから、戦局収拾の指示までわずか18分。
終戦を決意した昭和天皇に、迷いはなかったようだ。
つづく
          ◇
産経新聞では戦後70年にあたる平成27年4月~28年7月、昭和天皇の87年の生涯をたどるノンフィクション
  「ふりさけみれば」を紙面で長期連載しました。
これをウエブ用に再編集し、毎週土曜と日曜に連載します。
          ◇
  満州国 
関東軍などの画策により、中国東北部に1932年に樹立された国。
清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)が執政として元首となり、34年から帝政がしかれた。
しかし関東軍が強大な影響力を持つ事実上の傀儡(かいらい)で、中国や米英仏など多くは国家として承認しなかった。
45年8月の日本の敗戦とともに崩壊、消滅した。

  関東軍 
1904~05年の日露戦争後、日本の租借地となった遼東(りょうとう)半島南端の関東州と南満州鉄道(満鉄)の権益保護のため、中国東北部に駐屯した日本陸軍の部隊。
当初は関東州を統治する関東総督府の守備隊だったが、19年に関東軍司令部として独立した。
一部の参謀らが日本政府や陸軍中央を無視して暴走することがあり、28年の張作霖爆殺事件、31~33年の満州事変などを画策。
日本の国際孤立を招いて先の大戦につながる原因をつくったとされる。 
※戦後の反日日本政府が捏造した嘘がある! 杉原千畝英雄説は反日日本政府が杉原千畝を英雄に仕立て上げた大嘘、もう一つは山本五十六を英雄に仕立て上げた大嘘がある。(小学生の時、講堂で映画を見せられた!)
日本政府が未だに、大東亜戦争の総括をしない理由が、そこかしこに散りばめられた大嘘がバレるのを恐れての事であり、日本人を馬鹿にしている証でもあろう。
大日本帝国はハルノートを手にした時、何故、アメリカ政府に問い質さなかったのか? この謎が未だに解けずにいる。
          
  【参考・引用文献】
 ◯宮内庁編『昭和天皇実録』34巻
 ◯日本国外務省、ロシア連邦外務省編『日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集』(外務省)
 ◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)
 ◯佐藤尚武『回顧八十年』(時事通信社)
 ◯防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 関東軍(二)関特演・終戦時の対ソ戦』(朝雲新聞社)
 ◯木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』下巻(東京大学出版会) 
 
※天皇陛下を頂点に頂く世界一優れた大和民族が暮らす大日本帝国であった。
大和民族が統治する大日本帝国本土や満洲国、台湾、朝鮮、パラオを含む南方諸島を目にした米英欄は白人が想像もし得ない大日本帝国の国創りと統治能力の高さを知った。
奴隷を有する米英欄は大日本帝国と白人統治の余りにも違う統治方法に驚き恐れをなしたのであろう。
アジアの黄色人種を一括りにし、下等民族と蔑んで来た白人国家群だが、日清戦争とロシア帝国に圧勝し、第一次世界大戦に参戦、大日本帝国海軍の雄姿を世界に披露、挙句に人種差別撤廃を世界に訴えた大日本帝国を憎み始めた。
このまま大日本帝国が存在し続ければ、間違いなく白人国家の脅威になると白人国家群は悟ったのであろう。
心根が違う大和民族はそれに気づかず、懸命に国創りに邁進していた結果がABCD包囲網だが、この時、既に大日本帝国は白人国家軍からシナ大陸と満州国で戦争を仕掛けられていたのである。
新種発見・流石、天皇陛下!
2018・3・9 時事通信
昭和天皇採集標本、新種だった=海生生物「テヅルモヅル」―東大など
「記事内容」
生物学者としても知られる昭和天皇が1930~50年代に採集し、国立科学博物館(科博)が所蔵していた海生生物テヅルモヅルの標本が、実は新種だったことが東京大などの研究で分かった。
論文は9日、ニュージーランドの動物分類学専門誌ズータクサに掲載された。
テヅルモヅルはヒトデやウニと同じ「棘皮(きょくひ)動物」の仲間。
新種と分かったのはツルボソテヅルモヅル属の一種で、直径約5.3センチ。
水深40~1300メートルの海底にすみ、植物のつるのように細い触手を広げてプランクトンなどを食べる。
東大臨海実験所(神奈川県三浦市)の岡西政典特任助教らが2009年から17年にかけ、三重県沖などで採集した。
これまでに知られているツルボソテヅルモヅルと比べ、体表に微小なトゲがあるなどの特徴的な違いがあることから、岡西特任助教は科博など国内外の博物館が所蔵する計14個体の標本と詳細に比較。
その結果、昭和天皇が1930~35年と戦後の50~58年にそれぞれ相模湾で採集した7個体を含む11個体が新種と分かり、学名を「トゲ」の意味を含む「アストロデンドラム・スピニュローサム」、標準和名を「トゲツルボソテヅルモヅル」と名付けた。 
退位では無く譲位! 反日の神輿・嘘つき安倍総理に任せていいのか?
2018・3・7 
産経ニュース 天皇の退位等に関する皇室典範特例法施行令全文
「記事内容」
内閣は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法(平成29年法律第六十三号)附則第四条第一項第二号及び第二項、第五条第二号並びに第九条の規定に基づき、この政令を制定する。
 (退位の礼)
 第一条 天皇の退位等に関する皇室典範特例法(以下「法」という)第二条の規定による天皇の退位に際しては、退位の礼を行う。
 (上皇に関し天皇の例による法令に定める事項)
 第二条 法附則第四条第一項第二号の政令で定める法令に定める事項は、次のとおりとする。
 一 関税定率法(明治43年法律第五十四号)に定める関税の免除
 二 皇室経済法(昭和22年法律第四号)に定める事項
 三 皇室経済法施行法(昭和22年法律第百十三号)に定める事項
 四 輸入貿易管理令(昭和24年政令第四百十四号)に定める貨物の輸入の承認及び輸入割当てに関する事項
 (上皇に関し皇族の例による法令に定める事項)
 第三条 法附則第四条第二項の政令で定める法令に定める事項は、次のとおりとする。
 一 警察法(昭和29年法律第百六十二号)に定める皇宮警察に関する事項
 二 位階令(大正15年勅令第三百二十五号)に定める事項
 三 地方税法施行令(昭和25年政令第二百四十五号)に定める固定資産税が非課税とされる車両
 四 警察法施行令(昭和29年政令第百五十一号)に定める国庫が支弁する経費
 五 自衛隊法施行令(昭和29年政令第百七十九号)に定める国賓等の輸送に関する事項
 六 採用試験の対象官職及び種類並びに採用試験により確保すべき人材に関する政令(平成26年政令第百九十二号)に定める皇宮警察の分野に係る官職
 (上皇后に関し皇太后の例による法令に定める事項)
 第四条 法附則第五条第二号の政令で定める法令に定める事項は、次のとおりとする。
 一 国事行為の臨時代行に関する法律(昭和39年法律第八十三号)に定める事項
 二 第二条各号及び前条各号に掲げる事項
 附則
 この政令は、法の施行の日(平成31年4月30日)から施行する。
※ 害なす反日日本人+反日帰化人+反日在日韓国朝鮮人 ※
在日韓国朝鮮人に乗っ取られる日本!

2018・3・4 (1/2ページ) 花田紀凱=月刊『Hanada』編集長
産経ニュース レスリング・伊調馨、恩師による「陰湿パワハラ」は「週刊文春」衝撃のスクープ

2018・3・3 ユーチューブ
伊調馨パワハラ騒動 原因は交際相手の韓国人だった?!日本を脅かす『最大在日勢力』がとうとうレスリング界にも蔓延するヤバイ事態に…【衝撃】  (2)
2018・3・3 ユーチューブ 
日本人必見動画!
日本超大手企業の会長が社内にいる在日の真実を日本中に告発!その恐るべき内容に日本が凍りつく  (3)
「記事内容」 映画界が日本人の天皇陛下を侮辱!
読売、朝日、毎日、日経の読者は今週、『週刊新潮』(3月8日号)の広告を見て度肝を抜かれたろう。
右柱の特集、タイトルの一部と写真がベッタリと黒く塗りつぶされていたのだ。
時々はあることだが、これほどハデに塗りつぶしているのも前代未聞。
産経、東京はそのまま掲載した、問題のタイトルは
  「不敬描写で2月公開が突如延期! 『昭和天皇』のピンク映画」。
※誰がストップをかけたのか?
  〈明らかに昭和天皇を模した人物を、あろうことか、ピンク映画の「主役」の1人として登場させる。そんな前代未聞〉のトンデモ映画。
2月16日公開予定が前日になって突如延期になったという。
  『新潮』は脚本「朕、人妻と密会す」を入手、その内容をこと細かに紹介しているのだが、ま、書くのもはばかれるような内容とだけ。
それにしても、こんな映画が
  〈「映倫の審査は普通に通っていた」〉ということの方が問題だ。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  『週刊文春』(3月8日号)、これはまさに衝撃のスクープ。
  「伊調馨悲痛告白『東京五輪で5連覇は今のままでは考えられない』 恩師栄和人強化本部長からの『陰湿パワハラ』」。
伊調といえばレスリングで五輪4連覇の世界的アスリート。
発売日、各局のニュースでも取り上げられたくらいだから衝撃の大きさがわかろう。
  〈一月十八日、一通の告発状が内閣府の公益認定等委員会に提出された。告発状はA4用紙七枚に及び、日本レスリング協会幹部らの数々の不祥事が記されている。なかでも協会の強化本部長である栄和人氏(57)による伊調に対する“パワハラ”に多くの紙幅が〉
告発状を提出したのは貞友義典弁護士。
  〈「この告発状は、五輪出場選手を含む複数の協会関係者から依頼され、作成したもの」〉
栄氏と新しく伊調のコーチとなった田南部力氏との確執が原因らしい。
伊調自身は取材で、告発の内容をほぼ認めているが、むろん栄氏側は全否定。
内閣府も協会に事実を確認する意向だという。
  (2)
「コメント」

ナシ
 
※多くの投稿あり!
日の丸を背負う日本人女レスラーが何故、日本の敵・韓国朝鮮人と付き合うのか? 事実なのか?

  (3)
「コメント」

ナシ
 
※多くの投稿あり!
日本人は戦後、日本政府を信じて、汗水垂らし一心不乱に働き、廃墟の中、日本を復興させ、世界第二位の経済大国にまでに押し上げた。
経済大国に多大な貢献をしたが、余りにも政治に無関心だった。
それをいい事に、与野党の政治家と役人は馴れ合い政治を行い、利権を貪りやりたい放題、日本を大きく変えた結果が今の日本の国情である。
今は天皇陛下のご存在さえ危ぶまれている日本である!
日本は今、あらゆる所に在日韓国朝鮮人と在日シナ人、エセ帰化人が潜み日本国崩壊工作を続けている。
日本人が日本政府に国の舵取りを任せられない程、日本の国情が悪化している。
下品で不敬な反日映画界を許していいのか? 日本人!
2018・3・2 チャンネル桜
【直言極言】先帝陛下を侮辱するピンク映画下衆共の「責任」を問う![桜H30/3/2]
「放送内容」
今回は、週刊新潮が掲載した「昭和天皇のピンク映画」という記事と、その映画を製作した大蔵映画双方の社会的責任を問うていきます。
  出演:水島総(日本文化チャンネル桜代表)
 
※多くの投稿あり!
日本政府は何故、クレームを付けないのだろうか? 嘘つき安倍総理は皇室をお守りする気が無いのか?
日本政府が腐った反日政府である証なのであろう。
  参考
大蔵映画

皇室の危機!
2018・2・28 チャンネル桜 日本人必見動画!
【桜便り】皇室危機の根本問題~小堀桂一郎 / 北朝鮮対話戦略から視えるもの / リニア工事の談合は不正か / 広辞苑の台湾記述は誤り[桜H30/2/28]
2018・2・28 チャンネル桜
【水島総】正論を聞く集い「日本人としてなすべきこと」[H30/2/28]  (2)
「放送内容」
「放送内容」
  キャスター:水島総・水野久美
 ■ ニュース PickUp
  ・戦争前夜?北の対話用意 
  ・リニア工事の談合は不正か?
  ・広辞苑の台湾記述は誤り
 ■ 「御世代わりにおける根本的問題」について 
※反日政治家と反日官僚が馬鹿な有識者を使ったクーデター!
   ゲスト:小堀桂一郎(東京大学名誉教授)
 ※水島よ、国難を齎した嘘つき安倍総理を信じ過ぎた結果が今の日本、 嘘つき安倍総理延命させた張本人がお主だろう。
保守による安倍政権打倒こそ日本再生の切欠にすべきだったハズである!

  (2)
「放送内容」

2月15日にサンケイプラザで開催された「正論を聞く集い」の中から、水島総の講演「日本人としてなすべきこと」をお送りします。
反日勢力に騙されるな日本人!
2018・2・15 チャンネル桜
【Front Japan 桜】恐るべし赤い韓国現地報告 ~西岡力 「退位」の危険 / 憲法改正 公明党の反日の壁[桜H30/2/15]

「放送内容」
  キャスター:水島総・髙清水有子
 ■ ニュースPick Up
  ・「退位」という言葉の裏側 
  ・憲法改正 公明党の壁
 ■ 現地取材報告 平昌五輪と朝鮮半島の行方
 ゲスト:西岡力(「救う会」全国協議会会長・モラロジー研究所歴史研究室室長)
譲位!
2018・1・28 ユーチューブ 日本人必見動画!
須田慎一郎 宮内庁の裏切りとNHKの怪しい動き! 2018年1月28日
「コメント」
ナシ
御世変わり!
2018・1・20 DHCTV
いわんかな#7-2【平成とは?平成を大胆に総括】高山正之・馬渕睦夫・志方俊之・福島香織・塩見和子★日本の国益を考える会★天皇陛下即位・皇室・皇位継承問題を中心に

「放送内容」
  <後半>
平成とはいかなる時代だったのか? 時代の転換期と年号の変わり目がちょうど重なるこの感覚。戦後日本の仕切り直しは、若者たちの手にかかっている! 「いわんかな」は、最後のご奉公です!
  <#7-2・後半の目次的なもの>
・「平成」という時代とは何だったのか?
・はっきり言えば、暗い時代だった!
・これから問題となってくる「皇室」。
 反日勢力は皇室をターゲットに、混乱を狙ってくるので要注意。誰が本当の反日勢力か、よくわかるだろう。
・2019年の天皇の即位と、その後の参議院選挙が超重要ポイントだ。
・産経新聞(1月4日)の正論コラム、山崎正和氏(評論家・劇作家)の天皇論はよく読むとひどい。   http://www.sankei.com/column/news/180...
・平成の御世で象徴的だったこと
 →天皇陛下の訪中国(平成4年)
 →自虐史観の横溢 ほか
・皇位継承問題の根っこにあるのはマッカーサー憲法(日本国憲法)
・五摂家・宮家の復活が必要では無いか?
・中国が台頭したのは、日本はじめ国際社会の影響に他ならない
・中国の言う「人類運命共同体」に日本は絶対に入ってはならない
・ようやく「戦後」が終わったと感じる。今までの日本を作ってきたのは戦後の人ではなく戦前の人だった。これからの「戦後の日本人」は大丈夫なのか?戦後の日本人(若者たち)は、自分たちで自分たちの考えを作れるのだろうかと、心配になる。
・いや、団塊世代はアホが多いが、その下の若者たちは大丈夫だ。安倍政権の支持層を見ればわかる。
・「教えず、助けず、関わらず」(非韓三原則)by 古田博司氏
 それは、韓国のみならず中国にもあてはまること。
 中国を善導しようと思ってはならない・・・。
・日中が最も良い関係だった時代は、毛沢東の時代。
・日本の将来に希望を持てる理由
 →若い人が日本の歴史や古事記を学びなおそうという人が増えている。民族の魂は70年ほったらかしにしてると、どうしたってうずき始る。日本の八紘一宇の精神が世界に響く。トランプも同じことを言っている(ことに多くの人は気づいていない)。
・最後に1人1分スピーチ。
 「これからの日本、今年の日本、どうしたらいいですか?」
・新聞が本当のことを書けば、半年だけでいい、日本人は蘇る。憲法改正の国民投票も成せる。
・天皇陛下が靖国神社参拝できる日が、早く訪れますよう・・・!
産経よ、皇太子殿下、妃殿下を使え! 産経にも反日がいる!
2018・1・12
産経ニュース 天皇、皇后両陛下と皇族方のお歌、入選者らの歌一覧
「記事内容」
天皇、皇后両陛下と皇族方のお歌、入選者らの歌は以下の通り(仮名遣い、ルビは原文のまま)。
 天皇陛下
 語りつつあしたの苑(その)を歩み行けば林の中にきんらんの咲く
 皇后陛下
 語るなく重きを負(お)ひし君が肩に早春の日差し静かにそそぐ
 皇太子さま
 復興の住宅に移りし人々の語るを聞きつつ幸を祈れり
 皇太子妃雅子さま
 あたらしき住まひに入りて閖上(ゆりあげ)の人ら語れる希望のうれし
 秋篠宮さま
 村人が語る話の端々(はしばし)に生業(なりはひ)の知恵豊かなるを知る
 秋篠宮妃紀子さま
 人びとの暮らしに寄りそふ保健師らの語る言葉にわれ学びけり
 秋篠宮家長女眞子さま
 パラグアイにて出会ひし日系のひとびとの語りし思ひ心に残る
 常陸宮妃華子さま
 遠き日を語り給へる君の面(おも)いつしか和(なご)みほほゑみいます
 寛仁親王妃信子さま
 我が君と夢で語りてなつかしきそのおもひでにほほぬれし我
 三笠宮家彬子さま
 祖母宮(おほばみや)の紡がれたまふ宮中の昔語りは珠匣(しゆかふ)のごとく
 高円宮妃久子さま
 学び舎(や)に友と集ひてそれぞれに歩みし四十年(よそとせ)語るは楽し
 高円宮家長女承子さま
 友からの出張土産にひめゆりの塔の語り部をふと思ひ出づ
 高円宮家三女絢子さま
 気の置けぬ竹馬の友と語り合ふ理想の未来叶ふときあれ
つづく
日本人必見動画!
2018・1・2 DHCTV
【新春 DHC】1/2(火) 竹田恒泰・上念司・半井小絵【真相深入り!虎ノ門ニュース 2018年新春SP】
「放送内容」
   竹田恒泰×上念司×半井小絵
  『天皇・皇室〜意外に知らない     伝統・暮らしに迫る〜』
旧皇族・竹田家出身で明治天皇の玄孫にあたる:竹田恒泰
「天皇の政治利用を許さない!」と警鐘し続ける:上念司
ご先祖は天皇家と同じ井戸を半分使っていたから“半井”:半井小絵
天皇・皇室を語るにふさわしい面々が集結!